吉原女と金木犀 其の三
翌朝、奉行所に出向いた一真は、一人の小柄な老人に呼び止められた。
「坊、ちょっといいですかい」
ギラギラ光るぎょろ目をもった、気の強そうな胡麻塩頭の老人は、そういった後すぐに「いけねえっ」とおでこをぴしゃりと叩いた。
「今はもう旦那って呼ばねえとな。佐倉の旦那、事件ですぜ」
一真は、老人に近寄った。
「銀さん。久しぶりだな。隠居したんじゃなかったのか」
銀と呼ばれた老人は、十手を腰から出すと、見せびらかすように軽く振った。
「こいつを返上するには、若けえ連中はあんまりにも頼りねえもんでよ。まあ、古女房よりもこいつの方がなげえ付き合いだ。十手か俺か、どっちかがくたばるまでは岡っ引きを辞めるつもりはねえよ」
老人は、本名を銀吉という。
一真の祖父の代から岡っ引きをやっており、市中でもかなりの古株だ。
仲間からは大御所と呼ばれ、若い下っ引きや岡っ引き達の相談役でもある。
還暦を過ぎて周囲は隠居を薦めたが、本人はいたって元気でまだまだ現役をとおしている。
「それはそうと、旦那の耳に入れておきたい話があるんだよ。一昨日の晩だ。本所の川沿いでよ、人が刺されてたんだよ。そいつは今、医者に厄介になっているが、正体不明でとてもじゃねえが助からねえってのが、医者の見立てだ。俺はそいつを刺した奴を今、探しているところなんだが、現場で女を見たって話がでてんだよ」
ぎょろ目をぎらつかせて、銀吉は言った。
「女?女が犯人なのか。それはまた、厭な事件だな」
一真が腕を組みながらそういうと、銀吉は難しそうな顔をした。
「それが、変な事件でねえ。もっとも俺は、女は下手人じゃねえと考えてるんだよ。刺された男は、真っ正面からブスリ、だ。男は体が固太りででかくてよ、ありゃ力もかなりあったはずだ。よわっちょろい女がどう頑張ったって刺せるような相手じゃねえ」
でも、状況的にはそうなるのかなあ、と銀吉は悩むように十手で頭をコンコンと叩いた。
「どっちにしろ、女は引っ張るつもりだ。そんときゃ捕り物の許可を頼むぜ、旦那」
片手を上げて、挨拶すると銀吉は大股に歩いて去っていった。
「女、か。本所の川沿いは、兵庫の長屋があるな」
一真は思案しながら奉行所の中へと消えていった。
その頃、お菊は白い紙を前に正座をしていた。
昨日の事は、一日置くとだいぶ和らいで、なんとかいつもと同じように、平常を保てている。
何より、この仕事はできるだけ早く仕上げたい気持ちが強かった。
お菊は目を閉じた。
頭の奥で、カラン、と高下駄の音がしたような気がした。
そっと目を開けたお菊は、細くしなやかな線をするすると紙に走らせる。
そのしなやかな線は、美しい光景を次々に生み出していった。
まず、提灯持ちの男が先陣を切る。
高下駄の花魁は凛とした表情で八の字を書くようにゆっくりと歩く。
その後にはかしずくように小さな可愛い禿たちがそろいの着物でついている。
世話女房に遣り手婆。
奥では半籬の格子から他の遊女達もうっとりと眺めている。
お菊は夢中で描いた。
日が傾こうが、誰かの声がお菊を訪ねようが、お菊は筆を止める事はなかった。
幻想的な遊郭の、幻想的な夕暮れ時の風景だ。
描かれた華美な世界の裏は、あんなにつらいものだというのに。
なぜだか、懐かしくてたまらなかった。
明るい夜が恋しくてたまらなかった。
ふいに紙に水が滴り落ちて、絵が少し滲んだ。
自分が涙を流している事に気づいて、お菊は慌てて袖で涙を拭う。
「まいっちゃうわ。吉原が懐かしすぎて涙が出るなんて」
困ったように一人笑った。
その日一日をかけて、お菊は原画を仕上げた。
この絵を元に、彫り師が、色ごとに版を彫り、それを重ねていく事で一つの絵が出来上がる。
翌日お菊は出来上がった絵を神田屋へと持っていった。