吉原女と金木犀 其の二
「お菊さん、どうしたんだろ。心配だなあ」
兵庫の気持ちを代弁するかのように、安次郎がため息をついた。
「なんで、二人ともついてきてるんだよ」
あきれたような声を出して兵庫が後ろの二人に言った。
兵庫は公務に出ていたのだが、長屋の住人が戻ってきたお菊の様子を伝えると心配が先にたち、早めに仕事を切り上げたのである。
そして兵庫が早引けしそうな様子を見て、一真と安次郎もさっさと仕事を切り上げ、兵庫へついてきている。
「お前がしっかりしないから、お菊さんはきっとつらいめにあったんだろう。可哀想に、今頃泣いているに違いない」
一真は、兵庫を横目で見た。
「だって、すぐ帰ってくるって言うし、近くだっていうし、何かあったらすぐわかるだろうと思っていたし・・・」
言いながら兵庫も自分の落ち度に青ざめていた。
真夜中に女の一人歩きである。
襲われて、恐ろしい目にあった可能性だって十分にありえるのだ。
「くそっ、お菊さんを泣かした奴がいたら、俺がぶん殴ってやる」
安次郎がバシッと拳を手の平にぶつけた。
お菊の部屋はシンとしていた。
数人の男達がオロオロと心配そうに取り巻いている。
日当たりの悪い貧乏長屋は、日が傾き始めるとすぐに陰になり、行灯がないと中は薄暗くなる。
しかし、灯が点っている様子もない。
「お菊さん。俺たちだよ。入ってもいい?」
兵庫が声をかける。
すると、戸が少しだけ開いた。
「入って」
取り巻いている男達が安堵したようにため息をついた。
お菊は青ざめた様子で、ぼんやりと立って三人を中に招き入れた。
おぼつかない手つきながら、行灯に灯をともす。
明かりに照らされたお菊は、髪が乱れ、疲れきったような顔で目はうつろである。
「な、何かあったの?誰かに乱暴されたとか・・・」
おそるおそる兵庫は聞いた。
けれど、お菊はゆっくりと首を振った。
「何も、ないわ。昨日は、木戸が閉まって帰れなくなったから、野宿をしたの。うとうと眠ってしまって気がついたら、朝だった。心配させてごめんなさい。長屋の人たちにはそう伝えて頂戴」
三人は顔を見合わせた。
ただの野宿でこんなに憔悴するはずがないのは明白だった。
「何もないわけがないだろう。木戸が閉まっても、家に帰ろうと思えば帰ることはできるんだ。いいたくないなら言わなくてもいいが、俺達は町方なんだ、お前が助けて、と一言言えば、お前を守ってやるくらいわけはない。何かあったなら、ちゃんと相談しろ」
一真がいった。
お菊は、一瞬目を潤ませて、何か言おうと口を開けた。
しかし、また目を伏せて、口をつぐむ。
「本当に、何もないんです。大丈夫、また、すぐに元気になりますから」
一真はフウ、息を吐き出した。
「助けはいらない、というのか。じゃあ、俺たちは行くからな。気が変わればいつでも相談してくれ」
ありがとうございます、とお菊が頭を下げた。
「あの・・・。人を殺すと、罪とはどのくらいなものでしょうか」
突然お菊が尋ねた。
三人は一瞬顔を見合わせた。
「状況にもよるが、遠島、死罪は免れないだろうな」
一真がいった。
「遠島、死罪・・・」
お菊は、真っ青になって目を泳がせた。
一真達は、その様子を横目で見ながら、お菊の部屋を出て行った。
お菊の部屋を出ると、三人は顔を見合わせた。
「人殺しでもしてしまったのかな」
兵庫が青ざめて言った。
安次郎も黙ったままである。
「いずれにしても、お菊が喋らない限りは、何も分からないな。しばらく様子を見よう」
薄ぼんやりと光が揺れるお菊の部屋の障子戸を見ながら、一真はいった。