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第二幕 吉原女と金木犀 其の一

「初菊さんですね。随分探しましたよ」


初菊はお菊の源氏名なのだろう。


すみません、とお菊は言った。

「落ち着いたら、真っ先にお知らせをしたかったのですが・・・。その、迷惑かともおもいまして」


「迷惑だって言うなら、ずっと迷惑よ。主人があんたにどれだけ金を使って、どれだけ家に帰ってこなかったか、あんただってわかっているでしょう」

怒りを押し殺しているのか、女の声は震えた。


「本当に、申し訳ありません」

お菊は縮こまるように小さな声で言った。


「あんたのことは嫌いよ。お店のものとしても妻としても。当然、女としてもね」


お菊は黙ったままだ。


「・・・・・・」


しばらくまた沈黙が続く。

やがて女が口調を変えてポツリと言った。


「けれど、商売は別」


また茶をすする音がした。


「あんたが描いた絵を、主人から見せてもらった事があるの。主人は、これだけのものを描ける女は早々いない、だから身請けをしたいって。結局その後、死んでしまったからその話はなくなったけれど、私はその絵を忘れる事ができなかった」


「・・・・・・・」


「きれいな花魁の絵だった。花魁なんて見たことがないけれど、まるで動いているように華やかで生き生きとしていた。あの絵が、あの絵の才能が私の店に欲しい」


座りなおしたのだろう、衣擦れの音がした。

「初菊さん、私はあんたに原画を描いてもらいたいのよ。店で待遇よく扱うわけには行かないけども、この長屋で食っていく分、いや、それよりももっと多く出すことはできるわ。あんたに花魁道中を描いて欲しいの」


お菊は無言だったが、その沈黙が驚きのためだということはありありとわかる。


「私の店は、瓦版を刷っているんだけど、それ以外にも包み紙なんかの刷り物もしているの。今度、受けた仕事がねえ、白粉の包み紙なんだけど、それが、四、五枚繋げると花魁道中が出来上がるように仕上げてくれと言われていてね」

その絵見たさに、商品を四つも五つも売ろうっていう魂胆ね、と女はフフ、と笑った。


「あんたの絵はうってつけなのよ。一番間近で見てきているわけだし、華やかな画風はきっとお客様も満足してくれる。受けてくれるわよね」


一瞬の間をおいて、興奮したようにお菊は言った。

「もちろんですっ。是非、是非ともお願いします。私、きっと満足してもらうものを描きますから」


お菊が慌てて手をついたのか、ばたばたと動く音がした。



「すごいじゃないか、お菊さん」

兵庫が目を丸くしながら小さな声で、二人に言った。



その夜興奮さめやらない様子で、お菊は外にでて空をぼうっと眺めていた。


「早くねたほうがいいよ。今夜は結構冷え込んでるから風邪引いちゃうよ。」

兵庫は見かねて、声をかけた。


お菊は、うれしそうに兵庫に笑顔を向けた。

「それが眠れそうにないの。あまりにもうれしい事があってね。昔の馴染みで神田屋さんという方がいたんだけど、その方のお内儀さんがね、私に絵を描いてほしいっていうのよ。私の絵を褒めてくれたわ。こんなにうれしい事はないわ、私は絵だけが取り得だもの」


「神田屋って瓦版売って、繁盛している店だよね。確か主人の佐兵衛の死んだ後は、お内儀のおみちが切り盛りしているっていう話だよ」


昼間の女は、神田屋の女主人、おみちだったのだ。


お菊は、神田屋の話になると少し顔を曇らせた。

「ええ、本当は息子が跡を継ぐんでしょうけどあまり商いに興味がないみたいで、遊び歩いてばっかりなんですって。女手一つではあんな大店は大変でしょうね」


「でも、すごいよね。大きな店で使ってもらえるなんて。よほど絵が上手なんだね。吉原では絵も教えてくれるの?」


お菊は首を振った。


「踊りや、唄なんかは教えてくれるけど、絵は、遊女には何の足しにもならないもの。私は経師屋の娘で、おっ父さんに小さい頃から絵を描く事を教えてもらっていたの。吉原に売られて最初のうちは、本当にこっそり描いていたのよ。遣り手婆に見つかったら、紙がもったいないってひどく叱られるからね」

廓の事で何か思い出したのだろう、お菊はくすくすと笑った。


「ああ、夜風が気持ちいい」


冷たい夜風だったが、お菊は気持ちよさそうに目をつぶった。

それだけ、体が興奮して火照っているのだろう。


その夜風に乗って、爽やかな甘い香りがしてきた。


「いい匂い。これは何かしら」


兵庫も鼻をくんくんとさせた。

「多分、金木犀だね。何軒か先の家に植えてあるんだ」


「金木犀・・・。へえ、吉原の外はこんな匂いもあるのね」

お菊は感心したように言った。


「この金木犀はほんの十日ほどしか咲かないんだ。それに、実もつけないから、一年のうちの殆どは役立たずの木さ。けれど、その短い一瞬の、その匂いを楽しむために植えられているんだ」


「短い一瞬だけ、人に愛でられる。けれど、一年の大半は役立たず。そんな木もあるのね」

一瞬遠い目をした。

そして、似ているなあ、と一言呟いた。


そして、深く息を吸い込むと、そわそわとした様子で、からん、と下駄を鳴らした。


「ちょっと、外を散歩してきますね。もっとこの匂いを嗅いでおきたいの」


「木戸が、閉まるまでに帰ってこないとだめだよ。吉原と違って、木戸が閉まる時刻は早いから気をつけてね」

兵庫は、ちょっと心配しながら言った。


江戸の町のあちこちにある木戸は、防犯のため夜四ツ(午後10時位)になったら一斉に閉まる。

もちろん帰れないことはないのだが、木戸番に呼び止められるし、泥棒と疑われることだってある。


お菊は、吉原と時間が違うという事に少し戸惑った様だが、すぐにニコリと笑って言った。

「大丈夫、近所をちょっと歩くだけよ。すぐに戻ってきます」


そういうと、軽い足取りで長屋を後にした。


兵庫は後姿を見ながらちょっと不安そうに首をかしげたが、そのまま自分の部屋へと戻っていた。




しかし、その夜、お菊が戻ってくる事はなかった。


お菊が戻ってきたのは、翌朝、朝四ツ(午前10時位)ごろ。

真っ青な顔をして、体中を冷やしてぶるぶると震えながら、部屋に戻っていった。


その後、誰が訪いに行っても、部屋からでることはなかったのだ。


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