歯磨き売りの受難 其の三
そのとき、件のお菊が部屋から出てきた。
しなをつくった歩き方や、頑張って薄くしたつもりのようだが、おしろいが効いている顔などが吉原の遊女らしさのなごりである。
「兵庫さん、どうぞよろしくお願いしますね。私、本当に分からない事ばかりなの」
そういって、きれいに整った顔に優しげな目元でにこりと笑った。
「お、ありんす言葉がでてこないな。でもそういう喋り口も俺は好きだけど」
安次郎がお菊の前に立つ。
「俺は、兵庫の友人で清島安次郎といいます。こいつは腕っ節がかなり弱いから、あてにするなら俺をあてにしてください。貴方のような美人のためなら、火の中、水の中も厭わない」
「あら、素敵な殿方。けれど残念、そういう口説き文句は、わっちは聞き飽きておりんす」
悪戯っぽくありんす言葉を使ってお菊はまたにこりと笑う。
ばつが悪そうに頭をかいた安次郎を横目で見ながら兵庫がいった。
「安次郎、失礼な事するなよ。でもお菊さん、確かに俺なんかより頼りになるのはこの安次郎と一真なんだ。二人とも刀の腕は確かだから、何かあったら相談したらいいよ」
「まあ、そうなんですね。それは頼もしいわ。お二人様、どうぞよろしく」
お菊はぺこりと頭を下げた。
お菊は寅次の言ったように、何もできない女であった。
火を熾そうにも火打ちが使えない、野菜の切り方も食べ方も分からない。
ため息をついては、近所のものに聞き回っていた。
しかし、これまた寅次の目論見どおり、長屋の男連中は、大喜びでほいほいと手伝いに出向く。
飯を炊くのに失敗すれば、自分たちの飯を提供する。
振り売りで商売している連中たちはその日の残り物を提供する。
魚売の田子八など、わざと良い魚を残して、刺身や煮付けにしてお菊に食べさせているのだ。
「馬鹿だ。男って生き物は、本当に馬鹿だ」
歩きながらその話を聞いて一真はあきれたように首を振った。
「いいじゃないか。おかげでお菊さんはくいっぱぐれてないわけだし。それに安次郎も連日おしかけて面倒見にきてるよ。な」
兵庫は苦笑しながら、安次郎を見た。
「男が馬鹿って言うなら一真、お前は何だよ。どうしてお前まで独身長屋に向かっているのかなあ?兵庫の家なんて、用事がなけりゃめったに寄り付かないくせに。お前も本当はお菊さん目当てなんだろう」
安次郎は、小間物屋でお土産に買った簪を手でもてあそびながらからかうように一真に言った。
「別に。用事がなければ来ちゃいけないわけじゃないだろう。俺は、お前みたいなやましい下心なんかないぞ。ただ、女の一人暮らしを少し心配してやっているだけだ」
どうだか、と安次郎がけらけらと笑った。
やがて、長屋の入り口に立ったとき、三人は足を止めた。
身奇麗な格好をした中年の女が、お菊の家に入っていくのが見えたのだ。
「だれだろ。親戚の人かな?」
「身寄りはいないって言ってたよ。それにあの女の人、怖い顔して中に入っていったね」
三人はそろそろと兵庫の部屋の中に入ると、お菊の部屋の方の壁に耳をぴったりと当てる。
長屋の壁はかなり薄いので、声は丸聞こえなのだ。
しばらく、茶をすする音だけが聞こえていたが、やがて女が口を開いた。