歯磨き売りの受難 其の二
「まあ、そんなわけだから、家まで米俵を取りに来てくれ」
一真は、兵庫の家を訪ね、米俵のいきさつを話した。
「お鳥さんが来たの?なんで、俺んちにはよってくれなかったんだろう」
兵庫はしょんぼりとした。
お鳥と兵庫は一緒に暮らしていた事があり、兵庫は本気で所帯を持とうと考えた事がある。
傍らに座っていた安次郎が言った。
「あの人は、俺たちとは違う人間だ。お前にあったら、情にほだされて任務が難しくなるかもしれない、だから会いたくないんだろ」
今日は兵庫と安次郎は非番であった。
一真は公務の合間をぬって兵庫の家を訪ねてきたのである。
都合がいい事に兵庫の家には安次郎も遊びに来ていた。
「大八車をどこかから借りてこないといけないな」
一真が、そういうと兵庫はあっさりと言った。
「寅さんが多分貸してくれるよ。俺、聞いてくる」
そういって兵庫は長屋の自分の部屋からでた。
すると、丁度通りかかったらしく、兵庫はすぐに声を上げた。
「あ、寅さん。大八をさ、貸して欲しいんだけど・・・。って、誰?その人」
兵庫の声色が突然いぶかしげに変ったので、一真と安次郎も外に出た。
するとそこには、大柄で剛毛そうな揉み上げとひげを蓄えた男と、その後ろにスラリとした小ぎれいな女性がいた。
「おお、兵庫さん。丁度よかった。あんたの隣に今度から住むことになった、お菊さんだ。大事がないように護ってやってくださいよ。あんた、町方なんだから」
そういって大柄な男はどら声で笑う。
寅さんと呼ばれるこの男は、本名を寅次という兵庫の住む貧乏長屋の大家である。
剛毛な揉み上げがどういうわけか上向きに生えており、まるで虎の顔のように大きく、そして恐ろしく見せている。
兵庫は慌てて言った。
「今度からここに住むって・・・。寅さん、ここがどこだか分かってるでしょ。貧乏で独身の男ばっかり住んでる独身長屋だよ。女一人で住まわせるなんて、どうなってもしらないよ」
しかし、大家はそんな事は承知といった風に答える。
「大丈夫だって。だってあんたがここに住むようになって、後ろ暗いところがある連中は軒並み出て行って、代わりに、よわっちょろいが、まあ、真っ当な部類の野郎どもが住むようになっているんだ。治安は他の長屋よりも抜群にいいんだよ。ここは」
そして、お菊という女を促して部屋の中へと案内した。
お菊が中を見ている隙に寅次はこっそりと三人に近づいてきた。
「あの人、吉原上がりなんですよ。それもついこの間でね。わかるでしょ。吉原上がりの女が所帯じみたことができないことは」
あっ、と三人は顔を見合わせた。
吉原の女は小さいときから昼夜逆転の生活をしており、無論、家事を教わる事もない。
年季が明ける頃には、朝遅く起きて、飯も炊けない、買い物もできないといった女が出来上がる。
寅次は、腕組みをしながら自分の考えが、さも名案といった風に続けた。
「だから、ここなんです。どこの長屋でも女連中は、遊女上がりを嫌がる。けれど、ここは男ばっかりでしょ。それも、女と見りゃ猫でも世話を焼いてやるような奴ばかり。お菊さんはあのとおり、中々の器量だし、吉原遊女の品もある。長屋連中は皆お菊さんの世話をすすんでやってやるに違いないでしょうよ」
そういって長屋の奥を見やった。
既に、数人のヒョロヒョロとした男達が部屋から顔を覗かせ、口を半開きにしてこちらを見ている。
「くくっ、馬鹿な連中だ。これから無償でお菊さんの面倒をたんまりみてもらおうかね」
寅次は片頬をあげてニイッと笑った。