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序幕 其の二

井戸端でパシャリ、と足に水をかけてもらう。

朝晩冷え込む秋日ではあったが、思ったほどの冷たさはない。


きっと出立の前に汲み置いて、日晒しで暖めてくれていたんだな、と初菊は思う。

楼主の儀衛門はそういう気遣いをする人間だ。


儀衛門は無愛想に言った。

「おさらばえ」


「おさらばえ」

初菊は頭を深々と下げた。



足を拭って草履を履くと、くるりと後ろを振り向いた。

一緒に頑張ってきた仲間や可愛がってきた新造と禿、それに遣り手婆の玉の顔が並んでいる。


「おさらばえ」

初菊は少し寂しそうに微笑んだ。


わあっ、と初菊は皆に取り囲まれた。


「寂しくなりんす。姐さん、これからどうするんでありんすか」

遊女たちは皆、化粧もままならない顔の上に目を腫らしている。

普段は寝ている時刻というのに、遊女たちは眠い目をこすりながらわざわざ見送りに出てくれているのだ。


「何にも決めていないの。でも、江戸に住まいを借りて、大好きな絵を描きたいわ」

初菊は、皆を見渡しながら言った。


若い新造女郎と禿たちはしゃくりあげながら口々に別れを言う。


「姐さん、いかないでえ。また、遊んでよう。絵も描いてよう」

一番小さな禿がびいびいと泣きながらしがみついた。


そんな禿の小さな頭をぽんと叩いた。

「遊んでよう、じゃない。遊んでくれなんし。お玉さんに叱られるわよ」

その言葉にびくりとしたように、禿はこわごわと後を振り返った。


そこにはお玉が厳しい顔で腕組みをして立っていた。

痩せぎすの中年女はフン、とそっぽを向いた。


「あんたが、そんな喋り方をするからだろ。年季が明けた途端これだ。あんたに里心ってもんはないのかねえ」

ふう、と嫌味たらしく大きなため息をつく。


「お玉さん。いろいろありがとう」

初菊は深々と頭を下げた。


玉はそんな事をされる事に慣れていないためか顔を少し染めて、口をへの字にした。


遣り手婆の玉は、遊女たちの教育係であり憎まれ役でもある。

初菊もよく叱られ、叩かれた。


けれど、初菊が風邪をこじらせて生死の境をさまよったとき、誰よりも心配してくれたのは玉である。


玉が片頬をゆがめて言った。

「あんたは本当に不思議な子だねえ。そして運がいい。年季が明けるまでここで奉公できて、しかも目立った病気もなし。客だって、品行方正で金払いもいい。本当に絵を描く以外にとりえなんて何もないのにねえ」


これを聞いて初菊は苦笑する。

初菊も自分は運がよかったと思っている。


遊女が年季明けで吉原からでることは少ない。

大抵は、借金を返せずに残るか、別の岡場所に売られるか、あるいは病気で死ぬかである。

初菊は、このどれにも当てはまらず、自分の足で外に出るのだ。

これほど幸せな事はないのだ。


出立の時刻がせまってくると、無愛想な楼主が初菊に近づいてきた。

そして、思いがけない事を告げたのである。


「前に、お前を身請けしたいっていっていた、刷り物屋を覚えているか?」


「ええ、神田屋佐兵衛様。確か、そのお話の後、卒中でそれどころじゃなくなって」


初菊は目を伏せた。


「いい旦那様でした。私の絵の才能を見込んでくれたのはあの方だけでした。生きていれば、今年は六十歳でしょうね。お内儀様とご子息はお寂しい事でしょう」


楼主は懐に手をやり白い包みを出した。


「その神田屋からだ、お内儀が餞別をくれた。といっても五両だ。あれほど繁盛している店がこんな端金という気もするが、死んだ馴染みのお内儀からもらえるだけでもとんでもなく珍しい話だ。受け取れ」

ぶっきらぼうに初菊の手に載せる。


初菊は吃驚したように楼主と包みを交互にみたが、やがて瞳を潤ませて両手でそれを強く握り締めた。

「なんというお心遣いでしょう。神田屋の旦那、お内儀様の恩はけして忘れません」


そして、皆を見渡して手を振った。


「皆様、それでは、おさらばえ」


おさらばえぇ、と遊女たちも手を振り返す。


お玉がそっと目を拭うのが見えた。


楼主は背中を向けてこちらを向こうとしないが、その背中はどことなく寂しそうに見える。



吉原の大門をくぐるとき、たくさんの思い出が駆け巡った。


九つで裏門をくぐった時のこと。


ぶっきらぼうだが、乱暴な客から体を張って初菊たちを護ってくれた楼主。


意地悪だけど、本当は優しい遣り手の玉。


可愛かった妹分、禿達。



初菊にとって一番恵まれていた事は、よい見世に入ることができたことであろう。

つらい仕事ではあったけど、まるで家族のように暖かく力を合わせ、楽しい毎日であった。


大門をくぐると、初めて見る景色が飛び込んできた。


一帯に広がる黄金色の稲穂。

その真ん中を、大きくゆったりとした川が流れている。

さわやかな秋空を映してきらきらと光る水面の上の土手には赤い彼岸花が道を飾っていた。


忘れていた、秋の昼間のたわいもない光景である。


「なんてきれいなんだろう」


そう呟いたとき、冷たい風が川の方から吹いてきて、初菊は思わず身震いした。


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