遊女の誠 其の四
「おまえ、なんて事を・・・」
全てを聞き知ったおみちはゆっくりと頭を振った。
松吉は言った。
「罰が当たりました。といっても、小さなものですが。診せた医者がとんだヤブで、少し掠めただけの傷が、夜も痛くて眠れないくらいに腫れ上がってしまって。おまけに、筋までやられたようで指も思うように動かなくなりました」
そういって袖を捲り上げた。
痛々しく真っ赤に晴れ上がった腕を見て、お菊が哀れむようにため息をついた。
「お菊さん、あんたが犯人扱いされているなんて、俺はこれっぽちも知らなかったんだ。許してくれ。あの町方さんたちが事情は全て話してくれたよ。俺は自分の罪を人に押し付けるような、そこまで腐った人間になるところだった」
そういって松吉は奉行に向き合った。
「お奉行様。お菊さんは無実です。それどころか、馴染みの息子とはいえ行きずりの男の身代わりになるくらいの心根の優しい人です。どうかお菊さんには何のお咎めもないようにお取り計らいください」
松吉は地面に頭がつくくらいに平伏した。
「いいえ!違います。私があの男を刺しました。この人にこそ、何の咎もありません」
訴えるように強い瞳でお菊は言った。
その様子を見て一真が静かに言った。
「お菊さん、あんたのことは調べ済みだ。現場に水をまいて、松吉の落としていった血のあとを消してやったり、松吉の持っていた提灯を隠したりしたのはあんただろう。それに先ほど、伝助についていた下っぴきが来て教えてくれたよ。伝助の意識が戻ったそうだ。伝助から直接聞けばお菊さんの無実は否応なしに決まる」
与力が聞きとがめるように声を上げた。
「伝助の意識が戻っただと?おい、詮議は中止だ。もう一度吟味方に差し戻すぞ」
そういって与力たちは再び奉行を囲み、段取りを確認する。
白洲は俄に騒がしくなり同心や与力たちがお菊達を放ってめまぐるしく動き回る。
がっくりとうなだれたままお菊は動かない。
一真は言った。
「お菊さん、馴染みの息子だからといって自分を犠牲にしてまでかばうことはないじゃないか。所詮は他人、自分の方こそ大事にしないといけないぞ」
「いいえ。私はこの世から消えたかったのです」
人形のように青白く無表情な顔に、涙がぽとりぽとりと落ち始める。
「私の気持ちなんて、きっと誰にもわかってなんかもらえない。廓から出たら、外はひらけたものだと思っていました。けれど外では遊女は場違いなもので、ただそれだけで鼻つまみ者。恩義ある神田屋さんに憎まれ、見ず知らずの岡っ引きからも嘘つき呼ばわり。私は・・・わっちは、三歩歩きゃ恩義も忘れるような、そんな嘘つき女と世間は言いんす」
お菊は、睨みつけるように白洲を見渡した。
「上等よ」
お菊は、声を絞り出すように叫んだ。
「上等よ!わっちの誠、ここにありんす!」
涙がちぎれて、しぶきのように空をまった。
「かわいがってくれた旦さんと、餞別くれたおかみさんの恩義、決して忘れる事はありんせん。そんお二人の大事な大事な若旦那を、わっちが救わんとすることの、一体何がおかしいでありんしょうか?罪を被ってお命救って、それで本望、上等でありんすよ。何にも役に立たない芥子粒のようなこの命、遊女の誠を立てるためにどうして使って下さらぬ」
その細い手で拳を作り、白洲の砂に打ち付ける。
悔しさに、きりきりと歯をかみしめる。
傍にいた松吉が声をかけて手をかけるが、お菊はその手を拒んだ。
「どうせこの世に居場所もないわっちでありんす。情をかけてくれるというのなら、どうぞ、わっちにあんさんの罪をくださりやんし」
おみちがよろよろとお菊の側に近づいた。
「あんた、馬鹿なこといってるんじゃあないよ」
そして、膝を曲げてお菊の前にしゃがみこんだ。
「そうやって、格好つけて。いつ、誰が、あんたにいなくなって欲しいなんて頼んだんだい」
そういって両手を地面につけて、額に砂がつくほどに頭を下げた。
「お、お袋・・・」
土下座をするおみちを見て、松吉は言葉を見失った。
「悪かったね。あんたは神田屋と松吉を守ってくれていたんだね。なのにあたしったら、あんたを蔑むような事ばかり言って。そりゃあ、あんただって意地になって誠を貫こうとするだろうよ。私は、自分が恥ずかしいよ。遊女というだけで嫉妬をして、偏見を持ってしまって、あんたを傷つけ、詫びても詫びきれない」
涙を堪えているのだろう、おみちの肩は小さく震えていた。
「おかみさん・・・」
お菊は絶句したが、涙を滲ませながらもういいんです、と静かに言った。
おみちはよろよろと起き上がると、お菊の肩に手をかけて再び詫びる。
「いじらしいもんじゃないか。お菊は遊女のときにお世話になったことを忘れずに義理立てしていたんだ。あんなに冷たい目に合わされたっていうのに」
安次郎が、うんうん、と納得したように腕組みをしてうなずいた。
そのとき、ばたばたと奉行所つきの中間に伴われて神田屋の番頭が現われた。
「おかみさん。大変です!」
番頭は髪が乱れ、ところどころに煤をつけていた。
「なんだい、そんな格好して」
怪訝そうにおみちが近づくと、番頭は「落ち着いて聞いてください」と前置いた。
「伝助が、伝助が店に現われたのです。よろよろと足元もおぼつかない様子でしたが、突然、油を店にまいたと思うと、火をつけて・・・。慌てて皆で消しに入ったんですが、店は焼けてしまいました」
そういって、番頭は涙を流した。
「ば、馬鹿な。だって、伝助は先ほど意識が戻ったばかりって・・・。店が、燃えてしまったなんて、そんな話があるかい」
悲鳴のような声でおみちが叫んだ。
おみちはふらりとよろめいた。
慌てて周りにいた者が支えたが、そのままへたり込んでしまった。
「店の者たちは大丈夫なのかい?延焼は、大丈夫だったのかい?」
そう声をかけたのは松吉である。
番頭は松吉の姿を見て驚いていたが、首は縦に振った。
「は、はい。幸いにも怪我人はおりません。周りの家にも燃え移る前に火を消し止めることができました。ですが伝助は騒ぎの間に逃げてしまい、金も幾ばくか盗られてしまいました」
番頭はまたハラハラと泣き始める。
おみちも呆然と空を見つめる。
「よかったじゃあないか」
松吉は明るい声を出した。
「な、なにがいいことなんてあるもんかい。大事なお店が燃えちまったんだよ。金だって、盗られたんだよ。これから、どうして暮らしていいかわからないって云うときに何てこと言うんだい」
おみちは金切り声で言った。
松吉は座っておみちに目線を合わせた。
「けが人もなく、周りにも迷惑かけてない。また商売はやりなおせるじゃないか」
そういって、少し言いよどんだ。
「俺は人を刺したし、どうしようもない馬鹿だ。でも、もし恩義ある沙汰をいただいたら、どんな形であれ、絶対にお店の為に、おっかさんの為につくすよ」
いままでさんざん迷惑をかけてすまなかった、と松吉は頭を下げた。
「今頃遅いよ。このどら息子」
おみちは手で顔を覆っておいおいと泣いた。
その涙が、店がなくなった絶望からか、松吉の言った希望からなのかはわからない。
しかし、ひとしきり泣いた後のおみちは晴れ晴れとした顔であった。




