婚約破棄で笑い者にされた私は、一年かけて静かに証拠を集めていました 〜社交界の頂点で微笑む元婚約者と偽令嬢を、今夜わたくしが一人残らず引きずり下ろします〜
一
一年前のあの夜のことを、わたくしは今も、鮮明に覚えている。
王城の大広間。大勢の貴族が見守るなか、婚約者だったレオ・アッシェンバッハ侯爵嫡男は、わたくしに指を突きつけて、こう宣言した。
「ヴィオレット・レーヴェンハイト。お前との婚約を破棄する。清らかなリリー嬢を、嫉妬に狂って虐げ続けた、卑劣な悪女め」
彼の腕には、涙に濡れた男爵令嬢リリーが、儚げに寄り添っていた。
「レオさま……わたくし、ヴィオレットさまに、階段から突き落とされそうになって……」
震える声で紡がれる、真っ赤な嘘。けれど、その涙は、大広間の空気を完全に支配していた。誰もがリリーに同情し、わたくしに侮蔑の視線を注いだ。
わたくしは、リリーを虐げてなどいない。階段の件も、彼女の自作自演だった。けれど、いくら真実を口にしても、悪女の見苦しい弁明としか受け取られなかった。
公爵家の令嬢という立場も、その日を境に、意味を失った。父は王家との関係を慮り、娘を庇うより沈黙を選んだ。わたくしは社交界を追われ、屋敷の奥に、静かに引きこもった。
――そこまでが、彼らの描いた筋書きだった。
哀れな悪女は表舞台から消え、二人は晴れて結ばれる。事実、レオとリリーはその後まもなく婚約し、今や社交界の頂点で、誰よりも幸福そうに微笑んでいる。
けれど、彼らは一つ、致命的な思い違いをしていた。
わたくしが、泣き寝入りする女だと、信じ込んでいたことだ。
引きこもったこの一年、わたくしは何もせずにいたわけではない。むしろ、生まれて初めて、自分のために全力を尽くしていた。
リリーが偽った、家系の記録。レオが方々に隠した、借財の証文。二人に踏みつけられ、社交界から消えていった人々の、証言。そのすべてを、感情を殺し、一つずつ、確実に、集め続けていた。
鏡の前で、わたくしは、久しぶりに深紅のドレスに袖を通した。悪女と呼ばれた女に、ふさわしい色。
今夜は、王家主催の大夜会。一年ぶりに、わたくしが社交界へ戻る夜。
そして――彼らが、頂点から転げ落ちる夜だ。
「一年、お待たせしましたわね」
わたくしは、鏡の中の自分に、静かに微笑みかけた。「さあ、始めましょうか」
二
大夜会の会場に足を踏み入れた瞬間、ざわめきが波のように広がった。
「あれは……レーヴェンハイトの、悪女……?」
「よくもまあ、のうのうと顔を出せたものだ」
刺すような視線が、四方から突き刺さる。一年前なら、この視線に、心が折れていただろう。けれど今のわたくしは、微塵も動じなかった。
視線などいくらでも浴びればいい。今夜が終わる頃、その視線が誰に向けられているかは、まったく別のものになっているのだから。
会場の中央では、レオとリリーが、取り巻きに囲まれて談笑していた。わたくしに気づいたリリーが、勝ち誇ったように、口の端を上げる。
「あら、ヴィオレットさま。ごきげんよう。まさか、こんな華やかな場所に、お戻りになるなんて」
聞こえよがしの声。周囲がくすくすと笑う。
「ええ、リリーさま。せっかくの大夜会ですもの。旧交を温めに参りましたのよ」
わたくしは、優雅に微笑み返した。その落ち着きが予想外だったのか、リリーの笑みが、わずかに強張る。
「それに」わたくしは、静かに付け加えた。「あなたに、お祝いを差し上げたくて。ご結婚が近いと伺いましたわ。――ですから、ささやかな贈り物を」
わたくしは、一枚の古びた書状を、リリーに手渡した。
「これは……?」
「あなたのご実家、ブルーメ男爵家の、古い家系図の写しですわ。手に入れるのに、少々骨が折れましたけれど」
リリーの顔から、すっと血の気が引いた。
彼女は、自らを「由緒ある男爵家の、正当な令嬢」として売り込んでいた。けれど、その家系には、大きな嘘がある。リリーは、男爵家の血を引いていない。先代男爵の死後、遺産目当てに後妻が連れ込んだ、まったくの他人の娘だった。正式な養子縁組の記録すら、存在しない。
つまり彼女は、貴族ですらない。
「な、なんのことか……わたくしには……」
「あら、ご存じないのかしら」わたくしは、周囲に聞こえるよう、声を澄ませた。「でしたら、後ほど、神殿の血統記録官にでも、確かめていただくとよろしいわ。真実は、記録が語ってくれますもの」
リリーの手が、書状を握りしめたまま、震え始めた。
その様子を、少し離れた壁際から、静かに眺めている男がいた。
漆黒の夜会服。銀灰色の、すべてを見透かすような瞳。社交界の裏のすべてを握ると噂される、冷徹な情報公――セドリック・ヴァインリヒ公爵。
彼は、わたくしと目が合うと、面白そうに、口の端を上げた。
三
「見事な、初手だな」
夜会の喧騒から少し離れたバルコニーで、セドリック公爵は、グラスを傾けながら言った。
「あの一枚で、あの娘は今夜、貴族の資格そのものを疑われる。しかも、あなたは何ひとつ、糾弾していない。ただ、家系図を渡し、確かめてはどうかと勧めただけだ。誰にも、あなたを責める隙がない」
「まあ。買いかぶりですわ、公爵さま」
「謙遜は要らない」彼は、まっすぐにわたくしを見た。「私は、人を読むことを生業にしてきた。この社交界で、私に手の内を読めなかった相手は、あなたが初めてだ。――一年、屋敷に引きこもっていた悪女が、これほどの盤面を、静かに組み上げていたとはな」
情報公セドリック。彼が動けば、いかなる秘密も闇に葬られ、あるいは白日の下に晒される。そう噂される男が、なぜか今夜、わたくしに関心を寄せていた。
「公爵さまは、なぜ、わたくしにお声を?」
「単純な話だ。面白いからだ」
彼は、悪びれもせずに言った。「レオ・アッシェンバッハのくだらん狂言は、当時から気づいていた。あの男に、あれほど周到な策を巡らす頭はない。裏で糸を引いていたのは、あの偽令嬢だ。――だが、私は動かなかった。私にとって、益がなかったからだ」
「ずいぶんと、正直でいらっしゃいますのね」
「今は、益がある」セドリックは、微かに笑った。「あなたという、極上の見物ができる。それに――手を貸せば、貸しが作れる。あなたのような切れる女に貸しを作るのは、悪くない投資だ」
わたくしは、思わず笑ってしまった。この人は、少なくとも、嘘をつかない。同情でも善意でもなく、明確な利で動く。それが、かえって信用できた。
「では、公爵さま。一つ、お力を拝借しても?」
「言ってみろ」
「レオ・アッシェンバッハの、借財の証文。彼は、複数の商会から、多額の金を借りています。その返済を、実は、わたくしの父の名を無断で使った、偽の保証で繋いでいる。――その証拠は掴んでいますが、商会の当主たちを、今夜この会場に集めるだけの力は、わたくしにはありません」
セドリックの瞳が、面白そうに、細められた。
「なるほど。借金取りを、舞台に上げたいわけか」
「ええ。役者が揃わなければ、幕は開けられませんもの」
「いいだろう」彼は、静かに頷いた。「一時間で、揃えてやる。――せいぜい、鮮やかに踊ってみせろ、ヴィオレット」
四
一時間後。夜会が最高潮を迎えた、その頃。
会場の空気が、じわじわと、変わり始めていた。
まず、神殿の血統記録官が、王家の要請という形で会場に現れ、リリーの家系について、公式な確認を始めた。周囲がざわつくなか、記録官は、淡々と結論を告げた。
「ブルーメ男爵家の正式な血統記録、および養子縁組の記録に、リリー嬢の名は、一切存在しません。この方は、貴族ではありません」
会場が、どよめいた。
「そ、そんな……何かの、間違いですわ! わたくしは、確かに……!」
取り乱すリリーを、これまで彼女を持ち上げていた貴族たちが、一斉に、冷たい目で見始める。潮が引くように、人々が彼女から離れていった。
「リリー! どういうことだ、説明しろ!」
慌てふためくレオに、追い打ちをかけるように、会場の入口から、恰幅のいい男たちが数人、案内されて入ってきた。
商会の当主たちだった。
「アッシェンバッハ卿。こちらにおられましたか」先頭の男が、レオに歩み寄る。「たびたびの返済延期、いい加減、看過できませぬ。しかも、保証人とされているレーヴェンハイト公爵閣下に確認したところ、そのような保証をした覚えは一切ないと。――これは、公爵家の名を騙った、詐欺ではありませぬか」
レオの顔が、蒼白になった。
「ち、違う、これは、何かの……!」
「証文は、ここに」商会の当主が、束ねた書状を掲げる。「筆跡も、印も、すべてアッシェンバッハ卿のもの。言い逃れは、できませぬぞ」
会場中の視線が、レオに突き刺さった。清らかな令嬢を守った正義の貴公子は、もういなかった。そこにいるのは、他家の名を騙り、借金を踏み倒そうとした、ただの詐欺師だった。
わたくしは、静かに、その中心へと歩み出た。
「レオさま。リリーさま」
二人が、はっと、わたくしを見る。
「一年前、あなた方は、大勢の前で、わたくしを断罪なさいましたわね。悪女だと。清らかな令嬢を虐げたのだと。――けれど、ご覧のとおりですわ。今夜、この場で断罪されているのは、いったい、どなたかしら」
「き、貴様……! これは、貴様の仕組んだことか!」
レオが、憎悪に顔を歪めて叫ぶ。
「あら、仕組むだなんて」わたくしは、静かに微笑んだ。「わたくしは、ただ、真実を、あるべき場所に置いただけですわ。偽りの家系図には、本物の記録を。踏み倒された借金には、正当な貸し手を。――嘘が、勝手に、崩れていっただけ。わたくしは、指一本、触れておりませんのよ」
事実、わたくしは、何ひとつ、罪に問われることをしていない。ただ、隠されていた真実を、それぞれの持ち主のもとへ、返しただけ。裁いたのは、わたくしではない。彼ら自身の、罪だ。
「一年前、あなた方は言いましたわね。真実は、必ず明らかになる、と。――ええ、まったく、その通りでしたわ」
五
その後の顛末は、あっけないものだった。
リリーは、貴族詐称と、一年前の狂言の露見により、社交界から完全に追放された。レオは、公爵家の名を騙った詐欺の罪で、侯爵家から勘当され、爵位の継承権を剥奪された。頂点で微笑んでいた二人は、たった一夜で、すべてを失った。
そして、わたくしに向けられていた侮蔑の視線は、いつの間にか、まったく違う色に変わっていた。畏敬。そして、少しばかりの、恐れ。
一年前、悪女と嗤った人々が、今は、わたくしの機嫌を伺うように、頭を下げてくる。
けれど、そのどれも、わたくしの心を、少しも動かさなかった。
「気は、済んだか」
騒然とする会場を抜け出したバルコニーで、セドリックが問うた。
「ええ、おかげさまで」わたくしは、夜風に髪を撫でられながら、答えた。「ずいぶんと、すっきりいたしましたわ」
「意外だな。もっと、荒れるかと思っていた。憎しみに任せて、あの二人を直接、罵るくらいのことは、すると」
「憎しみで動けば、足元を掬われますもの」わたくしは、静かに言った。「感情で断罪した彼らは、感情で足を踏み外した。ならばわたくしは、真実だけで、彼らを追い詰める。――それが、一番、美しい報い方でしょう?」
セドリックが、しばし、わたくしを見つめた。それから、彼にしては珍しく、声を上げて笑った。
「まいったな。本当に、あなたは、私の予想を裏切り続ける」
彼は、笑いを収めると、まっすぐにわたくしを見た。銀灰色の瞳に、これまでとは違う、確かな熱が宿っていた。
「ヴィオレット。一つ、提案がある」
「なんでしょう」
「私と、組まないか。――いや、正直に言おう。組むだけでは、足りない」彼は、少し言葉を探すように、続けた。「私は、これまで、誰にも心を許したことがない。人を読むことに長けすぎて、誰の底も、すぐに見えてしまうからだ。退屈だった。だが、あなたは違う。何手先を読んでも、その先で、また私を驚かせる」
「まあ。口説き文句にしては、ずいぶんと理屈っぽいこと」
「私は、そういう男だ」彼は、悪びれずに微笑んだ。「だが、これだけは、理屈ではない。――あなたの、その、感情に呑まれず盤面を見通す知性に、私は惹かれている。守ってやりたいのではない。隣で、同じ景色を見たいのだ。対等な、共犯者として」
わたくしは、その言葉を、静かに、噛みしめた。
守ってあげよう、ではない。可哀想だから、でもない。この人は、わたくしの弱さを憐れむのではなく、わたくしの強さを、まっすぐに、認めていた。
一年前、わたくしは、誰にも信じてもらえなかった。真実を語る声すら、届かなかった。けれど今、目の前の男は、わたくしを、対等な一人の人間として――いや、対等な一人の知恵者として、望んでいる。
「光栄ですわ、公爵さま」
わたくしは、微笑んだ。「けれど、一つだけ、条件がございます」
「言ってみろ」
「共犯者、とおっしゃるなら。次にわたくしが盤面を組むとき、あなたも、退屈しない一手を、見せてくださいませ。――でなければ、すぐに、飽きてしまいますもの」
セドリックが、愉快そうに、目を細めた。
「上等だ。せいぜい、退屈させないと約束しよう」
終
夜会の喧騒を背に、わたくしたちは、月明かりの下を歩いていた。
「一つ、聞いてもいいか」セドリックが、ふと言った。「あの二人に、まだ、未練はあるか。憎しみでも、なんでもいい」
わたくしは、少し考えて、首を振った。
「いいえ、少しも。――不思議なものですわ。一年前は、あんなにも悔しくて、眠れぬ夜を過ごしたのに。今は、彼らのことなど、もう、どうでもいいのです」
「復讐を、遂げたからか」
「いいえ、違いますわ」わたくしは、静かに微笑んだ。「彼らを引きずり下ろすことが、目的ではありませんでしたの。――わたくしは、ただ、証明したかった。泣き寝入りするしかない、無力な悪女ではないと。自分の足で立ち、自分の頭で戦える人間なのだと。それを、他の誰でもない、わたくし自身に」
一年前のわたくしは、確かに、無力だった。理不尽に断罪され、弁明も届かず、ただ屋敷の奥で、うずくまるしかなかった。
けれど、今のわたくしは、違う。誰かに救われるのを待つのではなく、自分の手で、盤面をひっくり返した。真実を集め、機を待ち、一手ずつ、着実に。
「あなたは、強いな」セドリックが、静かに言った。
「ええ。――強くなりましたの。あの一年で」
わたくしは、月を見上げた。
守られる令嬢では、なくなった。憐れまれる悪女でも、ない。自分の意志で戦い、自分の意志で、隣に立つ相手を選ぶ。そういう女に、わたくしは、なった。
「セドリックさま」
「なんだ」
「次の盤面が、今から、楽しみですわ」
わたくしが差し出した手を、彼は、対等な握手のように、しっかりと握り返した。憐れみでも、庇護でもなく。同じ高さで、同じ景色を見る者同士の、確かな手だった。
一年前、わたくしは、すべてを奪われたと思っていた。
けれど、違ったのだ。奪われたのではない。あの理不尽が、わたくしから、無力な自分を、剥ぎ取ってくれた。
だから今、わたくしは、こう思う。
――あの夜、断罪されて、よかった、と。
あの屈辱がなければ、わたくしは、自分の強さも、隣で笑うこの共犯者にも、決して出会えなかったのだから。




