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数覚スキル

線形代数へのささやかな復讐

作者: 藤端 三利
掲載日:2026/05/29

 数学の科目の一つに線形代数というものがあります。行列やベクトルが出てきます。


 理系の人の大半は、高校で入門的な事項に触れ、大学初年度に本格的に学びますが、落伍者が続出することで有名です。


 例えば、漫画「数字であそぼ。」の第2巻[1]でも、主人公が理解できないで悩むシーンが描かれています。


 ご多分に漏れず、筆者も落伍者の一人です。それも、初回の授業の最初の一言で脱落しました。


 入学後まだ日も浅く、大学の授業の雰囲気に慣れていない筆者が教室に座っていると、講師は教室に入ってくるなり、言い放ちました。


「有向線分はベクトルではない」


 有向線分というのは、二つの点を矢印で結んだもので、高校ではベクトルだと教わります。


 この一言でうろたえた筆者は、その後のベクトルとは何かという話は全く頭に入らず、すっかり線形代数が苦手になったのでした。


 そんな筆者も大学卒業後、なんとか無事に就職することができました。


 しばらく経って、色々なデータを分析する仕事で、線形代数と再会することになりました。


 仕事の作業手順としては、データを表計算ソフトにコピー&ペーストして、主成分分析とか最小二乗法といったツールを呼び出すだけです。ただ、なんか数値は出ますが、どうも分かった気がしなくて、不満を覚えていました。


 これらの分析法の背後には、特異値分解という線形代数の道具が隠れています。やはり、特異値分解をきちんと理解しないとダメかな、と考え、腰を落ち着けて線形代数の勉強をすることにしました。


 線形代数の勉強を始めて思いました。たいして難しくないじゃないかと。大学のときの、あの苦手意識はなんだったのかと。


 そして、理解しました。あのときの講師は、マウントしたかっただけなのだと。


 有向線分を平行に動かしても気にせず、同じものだと思えば、有向線分はベクトルの一種です。だから、高校数学との違いを強調するにしても、まず、こういった説明をして、その後に、


「こんな風にベクトルはいろんなところに現れます。そこで、ベクトルとは何か、きちんと定義しましょう」


と指導すれば、筆者は落伍者にならなくて済んだのです。


 それなのに、あの講師は、新参者に大学数学の厳しさを教えてやるぜ、と意気込んで、学生たちがせっかく身に付けたベクトルに対する感覚を否定しました。


 まあ、こういった先輩風を吹かす人はどこにでもいますよね。異世界ファンタジーの定番だと、冒険者ギルドのベテラン冒険者とか。


 学園モノで、理不尽な教師が主人公に絡むシチュエーションだったら、すっくと立ちあがって、こう反論するところでしょう。


「それは有向線分の等しさの定義によります」


 ただ、大学に入学したばかりの筆者に、そんな力量はありませんでした。ああ、もっと力があれば、と悔しく思うのでした。


 悔しさをバネに、線形代数の勉強を進めました。そして、思いました。線形代数はむちゃくちゃ役に立つじゃないか。もし線形代数が爆発したら全人類が困る。線形代数は悪くない、むしろ落伍者を多く出すと、悪評を流されている被害者だろう。


 ここで、筆者は何に復讐したらよいか、怒りの矛先を見定めました。


 それは、線形代数の教え方です。


 線形代数の教え方に復讐するとしたら、やはりもっとよい教え方を考案することでしょう。振られた恋人よりももっと素敵な人を見つけてやる、という意気込みにどこか近いような気がします。線形代数に苦手意識を持つ不幸な人が減れば、世の中のためにもなります。


 線形代数をどう教えるかのがよいかは、教わる人の属性によって、大きく2つに分かれます。


1)線形代数はさらに高度な数学の基礎になっているため、できるだけ汎用的な形で理論を展開する(高度な数学を使う研究者向け)


2)データ分析などの現場で使われる線形代数の道具の原理がきちんと理解できる範囲で、なるべく簡単に済ませる(数学を道具として使う実務家向け)


 筆者は、当然、2)の立場です。従って、よい教え方とは、行列やベクトルが初めて出てくるところから出発して、特異値分解まで、ごまかさずに最小の労力でたどり着くことです。


 こういった観点で、既存の線形代数の教科書を調べてみました。だいたい以下の三グループに分かれます。


線形代数の入門書 :特異値分解までたどり着かずに終わる。あるいは、特異値分解の性質をざっと紹介するだけで原理の解説がない。


標準的な教科書  :線形代数の一般論が終わった後に、応用として特異値分解を取り上げる。


特異値分解の専門書:線形代数を一通り学んだ人を対象に、特異値分解を解説する。


 いずれにしても、筆者が期待するものはありませんでした。


 そこで、筆者は考えました。こうなったら自分で教科書を書くしかないかと。


 しかし、線形代数には大きなお荷物がいます。行列式です。


 行列式というのは線形代数の重要な道具の一つで、例えば、平面上の3点の座標値から、それらを頂点とする平行四辺形の面積を計算することができます。


 筆者がなぜ行列式をお荷物扱いするかというと、線形代数の他の道具と比べて異色で、むしろ順列・組み合わせの考え方に近いため、理解にかなりの労力がかかるためです。既存の教科書でも、行列式の説明にはかなりの紙面が割かれています。


 行列式を使わずに、特異値分解までたどり着けないかな、としばらく悩んでおりました。


 そんなある日、行列式を追放しても大丈夫、と天啓がありました。


 一歩前進です、しかし、線形代数には、行列式の他にも、つまずきやすいポイントがまだまだあります。


A:専門用語や数学記号が多くて理解が追い付かない

B:理論的な話が多く、何に使えるのか分からない

C:定理、証明、定理、証明が続くので、無味乾燥で退屈


 これらへの対策を以下のように定めました。


 まず、Aに対しては、専門用語と数学記号の使用を最小限にします。「集合」や「+」すら使いません。文章から独立した式も使いません。


 次に、Bに対しては、データ分析などの応用例を複数、紹介します。


 最後のCに対しては、物語の力を借ります。小説を読み進めるうちに、いつの間にか特異値分解が理解できるような構成にします。物語にすることで、なぜこういうことを考えるのかという動機も一緒に伝えられますので、理解しやすさが高まると期待できます。


 これらのアイデアを具体的な小説に落とし込んだものが、拙作「数覚スキルの育て方 ~たった一つのスキルが世界を変える~」です。


 数を視ることができる数覚スキルを伸ばす題材として、線形代数が登場します。物語の縦糸は、数覚スキルを伸ばしていく主人公の成長、横糸は線形代数の様々なトピックです。


 線形代数の各トピックの流れは、以下の通りです。


1)連立一次方程式、行列、ベクトルを導入します。


2)連立一次方程式を組織的に解くガウスの消去法を基に、解が一つに決まらない場合も扱えるように拡張して、LDU分解を導きます。以降の証明では、これが基本となるので、LDU分解を奥義と位置づけます。


3)複素数を導入して、数と未知数を足したり引いたり掛けたりしたものが0という代数方程式は必ず解を持つことを紹介します(代数学の基本定理)。


4)代数学の基本定理を使って、正方形の行列には、固有値と固有ベクトルが必ず存在することを証明します。


5)正方形の行列は、扱いやすい形の行列(上三角行列)に必ず変換できることを証明します。


6)正方形の行列に限らず、どんな行列でも特異値分解できることを証明します。


7)特異値分解に基づき、データ分析で用いられる主成分分析や最小ニ乗法の原理を解説します。


 読みやすさを優先して詳細な計算を省略しているところはありますが、証明のアイデアをきちんと述べ、論理的な繋がりを追える構成にしています。特異値分解の原理を分かりやすく提示できているのではないかと考えています。


 線形代数に挫折した皆様が、線形代数への苦手意識を払拭する一助となれば幸いです。


 最後に、二点補足します。

 

 まず、一旦は追放した行列式ですが、特異値分解のトピックの後、頼み込んで戻ってきてもらいました。どうしても物語に登場させたい応用例が一つあり、それが行列式を必要とするためです。


 拙作と同様の構成、すなわち行列式を極力使わず、最後に回す線形代数の教科書は、和書では見つかりませんでした。洋書であればAxler[2]が挙げられます。これは、高度な数学を使う研究者向けの本で、筆者の求める教科書とは方向性が異なります。今のところ、筆者の希望を満たすものの中では、拙作がもっともやさしい線形代数の教科書と言えるのではないかと思います。


参考文献:


[1] 絹田村子、数字であそぼ。、第2巻、小学館、2019年。

[2] Sheldon Axler, Linear Algebra Done Right 4th ed., https://linear.axler.net/LADR4e.pdf, 2026.(閲覧日:2026年5月7日)

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本編「数覚スキルの育て方 ~たった一つのスキルが世界を変える~」へのリンクは、 こちらです。
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