取調室の論語
考え続けた先で、
人は思わぬ場所にたどり着くことがあります。
そこは、特別な場所ではなく、
むしろとても現実的な場所かもしれません。
スクリプト:『取調室の論語、あるいは実存の破綻』
【舞台】
薄暗い取調室。裸電球が一つ。
「私」(泥だらけで濡れた原稿を握りしめている)と、「孔子刑事」(古い背広をぴしりと着こなしている)。
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(孔子刑事、ゆっくりと手帳を開き、筆ペンを取り出す)
孔子刑事:
「……子、曰く。『過ちて改めざる、これを過ちという』。」
(静かに顔を上げる)
「……君。カフェを無銭飲食で飛び出し、路上で奇声を発した。」
「これは『礼』に反する行為だと思わないかね?」
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私:
(食い気味に)
「礼!? 刑事さん、そんな古い形式に縛られてちゃダメだ!」
「私はサルトルに言われたんだ、自由という刑に処されているって!」
「……あの店員の偽善的な微笑にイラつく私の実存を、私はあそこで爆発させるしかなかったんだよ!」
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孔子刑事:
(動じず、茶をすする)
「『徳なき者は、久しく困きに居るべからず』。」
「君がイライラするのは、君の中に『仁』が欠けているからだ。」
「店員がマニュアル通りに動くのは、彼がその職分において『礼』を尽くそうとしている姿ではないか。」
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「それを『偽善』と呼んで嘲笑う君の心は——」
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「いささか小人の振る舞いだと言わざるを得ないね。」
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私:
「小人!? 心外だ!」
「私はニーチェの言う『超人』を目指して、既存の価値観を破壊しようとしたんだ!」
「伝統的な『礼』なんて、強者が弱者を飼い慣らすための鎖に過ぎないだろ!」
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孔子刑事:
(ため息をつき、手帳に何かを書き込む)
「超人か……。」
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「『君子は和して同ぜず、小人は同して和せず』。」
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「君のそれは、ただの『同して和せず』……つまり——」
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「周囲と調和する能力がないことを、高尚な言葉で飾っているだけだ。」
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(ゆっくりと視線を上げる)
「……いいかい。」
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「本当の自由とは、自分を勝手気ままに解き放つことではない。」
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「己を律し、社会の調和に戻ることだ。」
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「これを『克己復礼』と言う。」
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私:
「律する!? 冗談じゃない!」
「私は『私』でありたいんだ!」
「社会の歯車になりたくないから、あそこで叫んだんだよ!」
「刑事さん、あんたの言うことはあまりにも保守的すぎる!」
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孔子刑事:
(鋭い眼光でこちらを見る)
「『学びて思わざれば則ち罔く、思いて学ばざれば則ち殆し』。」
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「君は“考えすぎて”、基本を学ぶことを忘れている。」
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「……そもそも。」
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「無銭飲食の1,280円は、どうするつもりだね?」
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「これも君の『実存』の一部かね?」
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私:
(急に現実に引き戻される)
「……あ。」
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「それは……アダム・スミスの『見えざる手』が財布の中身をどこかに消し去ってしまいまして……」
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「あるいは、ケインズ的な流動性選好の罠というか……」
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孔子刑事:
(筆ペンを置き、静かに立ち上がる)
「……『義を見てなさざるは勇なきなり』。」
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「君が今なすべき『義』は、哲学を語ることではない。」
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「身元引受人を呼び、1,280円を払い、店員に謝ることだ。」
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「それが、君が失ったものを取り戻す唯一の道だよ。」
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私:
(絶望して天を仰ぐ)
「……サルトル……。」
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「自由の責任って……」
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「警察官に説教されて、嫁に電話して、1,280円のために頭を下げることだったのかよ……。」
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「私の超人計画が……論語に押し潰される……!」
(取調室の外では、あなたの妻が怖い顔をして待っている)
(孔子刑事は、最後に一言だけ添える)
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孔子刑事:
「……ま、安心しなさい。」
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「『徳は孤ならず、必ず隣あり』。」
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「……君の奥さんが、立派な『義』をもって会計を済ませてくれたよ。」
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「ただし——」
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「家での『お叱り』という名の洗礼が待っているだろうがね。」
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私:
(震えながら)
「……あ、ありがとうございます。」
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「……あの、刑事さん。最後に一つだけいいですか?」
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孔子刑事:
「なんだね?」
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私:
「……これ、スクリプトにしてもいいですか?」
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孔子刑事:
(ふっと微笑んで)
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「『知る者はこれを好む者に如かず、好む者はこれを楽しむ者に如かず』。」
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「……好きにやりなさい。」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
どれだけ理屈を積み重ねても、
最後に残るのは、
目の前の出来事と、それへの対応だけのようです。
それが正しいのかどうかは分かりません。
ただ、避けることはできないようです。




