その笑顔は、誰のものか
この話は、特別な出来事について書いたものではありません。
どこにでもあるカフェで、
どこにでもある会話を聞いて、
どこにでもあるように、少しだけイラッとした——
ただ、それだけの話です。
ただし問題は、その“少し”を放っておかなかったことです。
考えすぎると、
日常は少しずつ形を変えます。
この話は、その変形の最初のひび割れについて書かれています。
(深呼吸して、空のコーヒーカップを見つめながら)
ねえ、知ってる?
世の中には「悪意がないから許される」と思ってる絶滅危惧種みたいな連中がいるけど、あれ、嘘だからね。
「悪意がない」ってさ、
ただ“自分が何をしてるか分かってない”っていう、一番タチの悪い状態なんだよ。
例えば、さっきのカフェの店員。
「お名前でお呼びしてよろしいでしょうか?」って聞くから、「田中です」って答えたわけ。
そしたら彼、なんて言ったと思う?
(少し間を置いて)
「あ、田中様ですね! 素敵なお名前ですね!」
……いや、どの口が言ってるの?
親戚でもない、名付け親でもない、ただのバイトの君に、
私の名字の“良し悪し”を評価される筋合い、ある?
あれさ、褒めてるんじゃないんだよ。
褒めるっていう行為を、マニュアルで再生してるだけなんだよね。
中身が空っぽのまま、形だけ整ってる。
……ああいうの聞くとさ、
脳みそをストローで吸われてるみたいな気分になる。
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それから、一番イラッとするのは、質問に質問で返すやつ。
昨日、同僚に聞いたの。
「この資料、いつまでに終わる?」って。
そしたら返ってきたのがこれ。
「それって、部長が急いでる感じですかね?」
……知るかよ。
私が聞いてるのは「お前の進捗」であって、
「部長の機嫌の気圧配置」じゃないんだよ。
「いつ終わるか」っていう、ただの時間の話なのに、
なんでこっちが“状況説明係”に回らなきゃいけないの?
しかもああいう奴に限って、語尾が全部これ。
「~的な?」
「~みたいな?」
お前の人生、全部“仮置き”でできてるのか?
自分の言葉を確定させないことで、責任の場所をぼかしてる。
あれ、一種の自己防衛なんだろうけど——
……もう、その曖昧な語尾、ホチキスで固定してやりたい。
⸻
あと、最近の丁寧すぎるメールね。
「お忙しいところ恐縮ですが、お手すきの際にご確認いただけますと幸いです」
これ、翻訳するとこうでしょ?
「お前が今何してようが関係ないけど、俺の仕事止まってるから今すぐ見ろ。遅れたらお前のせいな」
……だったら最初からそう書けよ。
「幸いです」とかいう“あなたの善意に委ねてますよ”って顔、やめろ。
こっちは義務で動いてるんだよ。
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(溜息をついて)
……でさ。
一番イラッとするのは、たぶんこれなんだよね。
こういうの全部見つけて、
いちいち引っかかって、
頭の中で脚本みたいに組み立ててる——
この、自分の反応そのもの。
たぶんさ、あの店員も、同僚も、メールの送り主も、
普通に生きてるだけなんだよ。
それに対して、
勝手に意味を盛って、勝手に怒ってるの、こっち。
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……あ、店員が来た。
(顔を上げて、営業スマイルで)
「あ、はい。下げてください。……ええ、とっても美味しいコーヒーでした。ごちそうさま」
(ほんの一瞬、笑顔が揺れる)
……ねえ。
今のこれ、
どっち側だったと思う?
(その問いに答えるように、どこからか声がした)
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
誰かの言葉に引っかかったとき、
それをそのまま流せるか、立ち止まるかで、
見えるものは少し変わります。
この話は、その“立ち止まってしまった側”の記録です。
特別な出来事ではないはずなのに、
なぜか少し引っかかる。
そんな感覚が残っていれば、それで十分です。




