(8:楓が見たもの)
(八)
スマホの捜索は難航した。
この壁のような斜面のどこかで小さな機械が止まっているなんて奇跡のように思う。なにかに引っ掛かっててもよさそうなリュックだって見つからないのだ。
「わたし、ちょっと向こうを見てくる」楓がデッキの反対側を指差してオレの返事も待たずに歩いて行った。二人でいた方がいいような気がしたけど、お尻に張り付いた湿ったパンツが気持ち悪くてこっそり直したいのかもしれない。
「気いつけろよ」背中に声を掛けると向こうをむいたままサッと右手をあげてくれた。
なかなかカッコイイ。あのオシャレなワンピースのお尻がずぶ濡れだったなんてとうてい思えない。それで、こちらもこっそりとデッキの陰に回った。
結構、オシッコを我慢してたんだ。思えばホテルで楓を待ってる時にトイレに行こうか悩んだぐらいだったんだから。よく地震のショックで漏れなかったもんだ。楓に見せなかったオレの大事な相棒を褒めてやりたい。
もしオレがあのときパンツを濡らしてたら、楓はきっとさんざんバカにしてただろう。
「もう、汚ったない、なにやってんのよ情けない。あんたいったい幾つになったの、オムツしてた方がいいんじゃない」なんて……、ああ、楓の目の吊り上がったキッつい顔が目に浮かぶ。
「なにやってんの!」
ほら、こんなキッつい目をして……、って!
「!?」ホントに目の前に楓の顔があった。
「こんなとこでオシッコして、下の方にわたしのスマホがあったらどうすんのよ!」
「あ、ごめん」まさかあっさり戻って来るなんて思ってもいなかった。ホントに食い込んだパンツを直すだけだったのか!?
「はやく止めなさいよ、そんなの見せびらかしてないで!」
そう言われてもすぐに止められるもんでもない。それにガン見してんのは楓の方だ。やっぱさっきはホントにこいつを見たかったんじゃないのか?
「無理だよ、下にはなんにもなかったし……」放水の行方を目で追う振りをしながら、体を捻って楓の熱い視線から逃れようとした。
「あっ」流れのはるか先になにかが見えた。
咄嗟に体が動いて、樹の枝や幹に掴まりながら斜面を落ちるように下る。放水の続く短いホースをきちんと格納庫に戻す余裕もない。崖の縁でエンジェルホールとなった流れの先の木の枝に引っ掛かってたそいつを無我夢中で掴みあげた。
上の方で楓がオレの名を呼び捨てで叫んでいる。
慌てて焦ってこんなことをしたけど、真下を覗き見るとそこはもう〝いち〟の世界だった。
息を吐いて振り仰いで上に向かって手を振った。
「バカーーーッ!」
運動会の応援レベルの〝バカ〟が降ってきた。
足を滑らせながらもなんとか崖上までよじ登ると、楓は迷子になった低学年の子みたいに、べそをかいていた。
「もう、氷室くん、びっくりさせないでよ」そういう顔も可愛いと思う。
「これ、落ちてた」肩に掛けてた獲物を差し出す。女物のブランドの小さなリュックだった。幸いそんなには濡れていない。オレのズボンの前は楓のワンピースのお尻のような状態になってしまったけど。
「なんでも拾わないの」責める言葉も鼻をすすりながらの涙声で少し甘えたような感じになってて悪くない。
「これってスマホの持ち主のじゃないかな」
オレの言葉に楓がリュックの口を開いた。横から覗こうとしたら「女の子のバッグを覗くな」と叱られた。中身は財布やパスケース、化粧ポーチにどこかの鍵が入っていた。パスケースの中の免許証はあの殺人事件で連れ去られた女の名前で、オレたちは顔を見合せた。
「ひょっとして、ここから突き落とされたんじゃ……」
オレの疑問に楓もふるふると頷く。
元彼を殺した犯人は彼を寝取った女を連れ去り、この崖から突き落とした、ということか。
確かに突き落とされるのは恐怖だろう。恨みを晴らすには絶好の場所かもしれない。けど、怪我してるとはいえ大の大人を警察の目を逃れてこんなとこまで引っ張ってこれるのだろうか。それにいくら落ちたら確実に死ぬからって、恋敵を始末するのに〝恋人たちの聖地〟っておかしくないか?
それで、容疑者の女はその後どうしたんだろう。
やっぱりこの事件はどこか変だと思う。
それで、楓が調べるとパスケースには、もう一枚カードが入っていた。
『Heaven's ark SiteIV』
それは、どこかの部屋のカードキーのようだった。
「あっ!?」オレと楓はほとんど同時に声を上げていた。
それからもオレたちのリュックやスマホが見つかることはなかった。
楓はオレが拾ったスマホが気になるようで、捜索活動をすっかりオレにやらせてグリグリとアプリを開いてはデータを覗いてる。オレが画面を覗こうとしたら「見るな、スケベ!」っていわれたのは、どんな画像を鑑賞していたんだろうか。
このスマホから楓のスマホに電話を掛けてみたら微かにでも着信のバイブが分かるかもしれないと提案してみたけど、辛うじてどこかで引っ掛かってるスマホが振動で落ちてしまうかもしれないリスクがあるからと却下された。誰かのスマホを勝手に使うのも楓にとっては良くないってことのようだ。
しばらくして、日が傾くとどこからか放送が流れてきた。どうやら島の防災放送のようだ。神島の町役場からっていってる。
今回の地震では津波の心配はないそうで、下の神島小学校が避難所として解放されているらしい。本土からの支援で避難所には給水車も電源車も来ているそうだ。
このまま暗くなったらスマホ探しどころか身動きも取れなくなる。ひとまず避難所に行った方がいいだろう。北倉先生も島に残ってたならきっとそっちに行ってるだろう。オレは楓との件でややこしくなってるみたいだし、あんまり会いたくはないんだけど、一応頼れる大人には違いない。
「楓、探すのは明日にして、今日はもう避難所で休もうぜ」
楓が仕方なく頷く。探すと言っても、オレが崩れたデッキの周りをただうろうろして崖の下を覗き込んでただけなのだ。
心身ともに疲れた体を引き摺るようにして、ロープウェイ乗り場に向かったが、あの地震の後だ、恐らく運転はしていないだろう。けど、駅前の看板には山内の徒歩ルートが書いてあったはずだった。駅の窓口には案内の地図なんかが置いてあるかもしれない。
駅までの山道はところどころに地割れができていて、斜面から転がってきたのか、大きな岩が居座っている、避けようとしてそいつを睨んだ。
「あっ」
視界の端の崩れた斜面の脇にキラッと光るものがあって、思わず駆け寄って手を伸ばした。
「百円みっけ!」
長年放置されてたような鈍くくすんだ硬貨を摘み上げて楓に向けた。
「バーカ」冷たい反応だ。百円だぜ、百円!
仕方なく、オレはその硬貨を元の場所にそっと置いた。百円得するより楓に〝いい子〟って褒めてもらう方が大事だ。けど、お金は交番に届けた方がよかっただろうか?
そのようすをみて、楓が呆れた顔をした。
「貰っとけばよかったのに」
確かに百円だ。拾ってポケットに入れてもどうってことはない。交番に届けてもどうせ持ち主なんて見つからないんだろうし。でも、それを楓が口にしたことが、恐ろしかった。楓がどんどん別人になっていくような気がしたからだ。
オレは急いで楓の隣りに戻って置いて行かれないように、キュッと手を繋いだ。
楓は目を剥いて分かりやすく驚いた。オレがそんなことをしたことは、いままで一度だってなかったことだからだ。楓は怒ったようにでかい目でギロリと睨むと、「ふん」と顔を背けた。
「ごめん」繋いだ手を緩めようとしたら、しっかりと指を絡めくれた。
「うろちょろしないの、いい?」楓は前を向いたまま、そうつぶやいた。
授業中、落ち着かなくて席を立ったオレに楓は手招きして席につかせ、母ちゃんみたいにそう言った。オレは楓の言うことだけはきちんと聞いていた。
楓は他のやつらみたいにオレをバカにすることがなかったからだ。楓について行けば間違いなかった。
「このスマホね、実は犯人のスマホみたいだよ」楓は話しが途切れたのを待ってたように、もう片方の手でスマホをオレの前に掲げた。
「でも、リュックは連れてかれた女のだろ?」免許証の名前がそうだった。
楓が頷きながら片手でスマホを操作する。すごい、器用だ。それでオレに一枚の画像を見せた。
自撮り画像だ。どこかの海岸だろうか、女の人がふたり頬っぺたをくっ付けてこちらを向いて笑ってる。一人は髪の短い活発そうなひと、もう一人は優しく穏やかで癒されるような……、容疑者の女!?
楓はオレの反応に頷いた。
「こっちが被害者、こっちが犯人」
オレはその画像に釘付けになった。
「ねえ、これって」二人の手元を指差した。
「ふたりは知り合いだったんだね。それもかなり仲がよかったみたい」写真に写る二人の手には、あの透き通る青い石があった。
この、どこかの海岸で拾われた思い出の青い石が、ここの山の中で並んで落ちていた。楓が示す別の写真には、見覚えのある青いイヤリングも写っていた。
だとしたら親友に恋人を奪われ失意の底で、この人が見た景色は青い〝海だらけ〟だったんだろうか。
駅に着くと、予想通りロープウェイは止まってて、誰も人がいなかった。
来る時には改札口に張り付いていた警官もいない。運休の案内も表示もなにもなくて、駅員の姿も一人もいなかった。
「みんな下りちゃったのかな」何組かいた観光客も歩いて避難所へ向かったんだろうか。
駅前の観光案内の看板には赤い線でいくつかの散策路が描かれている。どの道を通っても下までは歩いて一時間はかからないだろう。
「オレたちも下りようぜ」看板の最短ルートを指さすと、楓があのカードキーを取り出した。
「ねえ、行ってみない?」