(7:揺れ動く楓)
(七)
『どうしてそんなこと聞くの?』
楓が問い掛けるその意味はなんだ。
オレはとっさに二つの意味を感じた。
A:どうしてわたしが氷室くんなんかを好きなわけ?
B:どうしてわたしが氷室くんを好きなことを信じてくれないの?
確かめたなんて、まるで楓のことを信じていなかったみたいで言えない。楓の目が怖いんだよ。
楓が頭の中でチッチッチッとカウントダウンタイマーを動かしているような気がする。
だめだ、もう十秒になる。
「ほら、オレって楓のことずっと好きだっただろ?」しゃべってる間にいい答えを見つけるんだ。それしかない。
「うん、知ってる」好きだというワードにひとまず楓は頬を緩めて頷いた。
「それで、きょうの楓があんまり大人っぽくて、そんで、優しくしてくれるからさ……」一瞬、大人っぽいはいままでの会話から失敗だったかと思ったけど、オレの言葉にうんうんと頷いている。それほど反応は悪くない。
「だから、あの、ちょっと甘えてみたくなって」
「ええっ?」楓は呆れたように顔を歪めてはっと息を吐い。けれど目の奥は笑っているのが分かる。
「甘えたいって、氷室くんひょっとしてマザコンなの」
「違う違う、カエデコン、カエデコン」なんだカエデコンって。
「じゃあ、ちょっとヨシヨシしてあげようか」会話の流れの勢いなのか、それとも楓の中にもひょっとしたら母性ってやつがほんのわずかな欠片のように耳かき一杯分ぐらいはあるものなのか。
楓の手がオレの方に差し出された。
ハグするか? チューするか? いや、ぱいか? オレは締まりなくヘラついた。
その途端、楓の伸ばした両手がオレの肩を激しく突き飛ばした。ズドンと突き上げられるような感覚でデッキの手摺りに背中がぶつかる。勢いで足がデッキの床から浮き上がった。
落ちる!?
手摺りに掴まろうと咄嗟に腕を広げたオレの胸に楓が体当たりしてきた。身体が浮き上がり背中が手摺りを滑る。
背中に荷物があれば引っ掛かっていたんだろうけど、オレのリュックは皮肉なことに楓の遺書入りリュックと並べて神聖な鳥居の根元に置いてある。
楓のオレに向けた苦しげな表情。仰ぎ見た青い空。回転する一筋の飛行機雲。
やっぱり楓は〝いち〟を選んだんだ。ここで楓に突き落とされるのもいいか。いや、それなら自分で〝いち〟を選んどけばよかった。
けど、オレの惨めな姿を見て怖くなって楓が自殺を思い留まってくれればいい。せめて、せめてだけど……。
だけど、次の瞬間、オレの身体は強く引き戻されていた。
楓がオレの胸にしがみついている。勢いでデッキの真ん中辺りまで転がるようにもつれあって倒れ込んだ。それで、ようやく気付いた。
楓が悲鳴をあげる。スマホがアラートを鳴らした。
『地震です。地震です』
緊急地震速報だ。遅い、もう揺れてる。立てないどころか、寝そべってもいられない。必死になって楓と抱き合った。
デッキがバスケットボールのように弾んでバキバキと不快な音を鳴らして傾く。シェーカーの中にいるような縦横の激しい揺れが長く続いて、ようやく治まろうかというころ、轟音と共に足元が抜けたように尻が無重力になってデッキが落ちた。支えていた柱が壊れたんだろう。デッキは傾いたまま、崩れるように崖の端っこで樹に絡まって止まった。
オレたちは歪んだデッキの手摺り柵と倒れてきた恋人たちの鳥居との隙間で身を強ばらせていた。手摺り柵の隙間が身体の大きさよりも狭かったのが幸いして、オレたちは崖から落ちずに済んだ。
生きている。楓の泣き叫ぶ声としこたま打った尻と肘、脛の痛み、首筋に喰い込む楓の爪先がそれを知らせていた。
崖の上から海に向かって突き出すように傾いたデッキからなんとか地面の上に足を付けるまで一時間程――楓が泣き止むまでのかなりな時間を含めて――が掛かっていた。
楓は近くの安全そうな草の上にへたり込んでまた涙ぐんでいる。けど、ここなら余震がきても落ちる心配はなさそうだ。気の済むまで泣いててくれてもいい。
さっきまで死ぬことさえ望んでいた楓は、目の前に来た死の恐怖に震えている。
いいんだそれで、一緒に生きよう。できるなら罪も犯さずに。
楓の隣に屈んで、肩を抱くように背中を撫でた。ズボンのポケットからしわくちゃなハンカチを引っ張り出して渡すと、躊躇うことなく鼻を噛んだ。丸めたハンカチをオレの手に押し込んでひとつ鼻をすする。それで、オレの顔を見上げた。
「スマホ……」
「スマホ?」一瞬だけ考えて、持ち物全てが失われているのに気付いた。
鳥居の根っこに置いてあった二人のリュックと、それに楓が手にしていたスマホも消え去ってしまってる。オレは立ち上がって周りを見回した。
あるとしたら傾いたデッキから滑り落ちて崖の下だ。探せるだろうか、それに動けない楓を一人置いてここを離れるのも危険な気がする。
「スマホ!」
どうやら探して来いという強い意志のようだ。
確かにオレだってリュックの中にはスマホもあればサイフだって入ってる。見つけられるものなら見つけたい。
「ちょっと探してくるから待ってて」
頷くのを確かめて、傾いた巨大なデッキを横目で睨みながら先に進んで崖の下を覗き込んだ。数メートル下までは樹を伝って降りられそうだ。どこかに引っ掛かってる獲物を想像して楓の方を振り向いたが、ここからはもう姿が見えない。
仕方なく、また崖を向いて、しゃがんで下に降りるルートを探っていると、すぐそこの樹の根元になんとスマホが落ちていた。
腹這いになって無理やり手を伸ばしてそいつを掴みあげると間違いない、見覚えのあるリンゴのマークが付いている。
急いでさっきの場所に駆け戻って手にしたスマホを大きく振った。
「すごい、見つかったの」
楓はオレの仕事に驚き、喜んで手を叩いてくれた。それで、スマホを受け取ると呆気なく渋い顔になった。
「これ、違う」
同じリンゴのスマホでも機種が違うらしい。
確かにホーム画面には楓と違う女の人のツーショット画像が貼られている。
「どこ見てんのバカ」散々好きとか言っときながらスマホの機種も知らないなんていい加減な気持ちでいる証拠だと文句をいう。
けど、学校にはスマホを持っていっちゃいけないし、学校以外で楓に会うことは滅多にない。楓のスマホにリンゴマークが付いてることを知ってるだけでも褒めてもらいたいぐらいだと思う、がそんなことは口が裂けても言えない。
楓がため息をついてお尻を浮かせた。
「わたしも行く」
どうやらオレは信用できないらしい。
黙っててあげてるけど、あのとき地震のショックで派手に濡らしたパンツがようやく動けるくらいに乾いてきたんだろう。
「けど、スマホなんてそうそう落ちてるもんじゃないと思うんだけどなあ」間違えても仕方ないんじゃないかアピールをしながら、スマホを見つけた所まで楓を案内する。
「なんでも拾う癖が付いてるからそうなるんだよ」ツンツンと言い返される。
そうなるってどうなるんだ?
楓の機嫌が悪いのはまだパンツが湿っててお尻が気持ち悪いからだろうか。