(6:楓の願い)
(六)
「赤城学院三年の遠山貴章を殺して」
用意してた課題を女神様がサラリと告げる。
くっそくっそ、さっきから『やっぱり』だらけだ。腹の奥で感じてた通りの依頼だった。
「そいつって楓が付き合ってるって男か?」確認しなければならない。
「いますぐじゃなくていいよ。明日か、明後日の日曜日でもいいから」
オレの質問は速攻無視かよ。てか、今日はもうどうせ無理だし明日とか明後日って、それはほぼ〝いますぐ殺せ〟と同じ意味だと思う。
「氷室くんならまだ小学生だし殺しても罪にならないよ。わたしが高校生にイタズラされてるって思って助けようとしたら相手が死んじゃったってことにしたら正当防衛だし。運悪くても高崎の上州園とかの施設に入れられるぐらいで、上手く行けばおとがめなし。あくまでも突発的で計画性がなかったようにしてね。氷室くんがわたしと付き合ってるって感じにしといたらなおさらいいんじゃないかな」無茶苦茶計画性ありありだ。
「オレ、人を殺すんだよね?」楓があんまり軽く言うからオレがやろうとしていることも軽いことのように思えてくる。
「あんなの人じゃないから大丈夫。台所のGと同じ。いい、修学旅行中に二人だけで勝手な行動してたんだからみんなはわたしたちのこと〝特別な関係〟だって思うでしょ。まなちゃんなんかもうすっかりわたしと氷室くんがホテルのトイレでエッチなことしたって思い込んでるんだから。それでさ、これは大事なことなんだけど……、ちょっとこっち来て」 楓がオレに手招きする。なにか秘密のことを耳打ちするんだな。確かにこれは大きな声では語れない作戦だ。周りに人はいないけど『壁に耳あり障子に目あり』だ。
楓のそばによると顔の前でもう一度小さく手招きをされた。
オレは右の耳を彼女の口元にさっと近付けた。すぐそこに楓の息遣いを感じる。
「氷室くん、こっち」
呼ばれて、くるりと楓に顔を向けると目の前に優しい黒い大きな瞳があった。こんなに近くで正面から彼女を見たことはいままでなくて、本当にキレイだと思った。いや、これほど愛らしくて美しかったなんてぜんぜん気付かなかった。
いままで〝カワイイ〟なんてさんざん言ってきたけど、オレは実はなにも知らなかったんだ。
目もおでこも頬っぺたも鼻も唇もあごも全部が全部言葉にできないぐらい完璧で、オレの理想通りの形をしている。
オレは自分の顔がみるみる赤くなっていくのを感じた。理想が楓なのか楓が理想なのか。
こめかみがズキズキして耳の先まで焼けるように熱い。
そんなオレに楓が微笑んであごを突き出した。
オレの唇にひやっと冷たい柔らかなものが触れて、すっと離れた。その冷たさが氷のように唇から火照った頭を瞬間に冷まして身体中を真冬の大沼に放り込んだみたいに凍りつかせた。
「ね、これでもうわたしたち付き合ってる関係になっちゃったでしょ。だから氷室くんはわたしを苦しめる人からわたしを守らなきゃならないの。そうでしょ」
楓の言葉が炎になってオレの冷たくなった体を一気に燃え上がらせた。まるで冷水シャワーを浴びた後にカッと体が熱くなるみたいに。
オレは何度も何度も頷いていた。
楓の胃袋の奥から香る微かな昼飯のカレーの匂いが生々しい楓の肉を感じさせる。
頭の中に映像が湧き上がってくる。
人出で賑わう日曜日、午後のショッピングモール。
オレは手にでかいカッターナイフを握っている。
前の日に家のカッターが壊れてしまった。刃がボロボロになってロックも利かなくなってしまった。だからいつもの百均でカッターナイフを買ったんだ。家のが壊れたら新しいのを買うのは当たり前のことだ。ペットボトルを工作して小物入れを作ろうと思っていた。それなら大型のカッターナイフの方がいいに決まってる。
帰りがけにフードコートのそばを通ったら、楓が男に絡まれている。そうとしか思えないんだ。なにしろ楓はオレと付き合ってるんだから。楓もオレを愛してる。恋人たちの聖地で鈴を鳴らしキスだってしたんだ、他の男と仲良くなんかするはずがない。助けなきゃ。
オレは駆け寄ってヤツの首筋にカッターナイフを振るった。頸動脈を切ればいいだけだ。それで正当防衛だ。すぐ横には楓の『よし!』という満足気な顔。だけど止められない。オレは何度も何度もヤツの顔にナイフを突き刺した。コイツが憎い、楓を苦しめるコイツを、オレを苦しめるコイツを、この世から消さなきゃならない。クソっ、消えてなくなれぇ!
右手に握りしめた血まみれのカッターナイフを……、あれ、ない?
ここは? フードコートじゃない。
そうか、そうだ、熱くなりすぎだ。
顔を上げると楓の姿がなくなっていた。焦って周りを見回したら、デッキの反対側に回って外の景色を眺めているようだった。
一瞬、いないから飛び降りたのかと思ったぜ。
楓を追いかけようとして、脚がもつれそうになった。ヤバい、本当に殺ったわけじゃないのに、まだ心臓がバクバクしてる。
太腿を拳で二回叩いて喝を入れ、ゆっくりと楓の背中にたどりついた。
「かえで」呼びかけて、喉がヒリヒリして上手く声が出なかった。喉が渇いてる。なにか飲みたいけど、水筒はボストンバッグと一緒にコインロッカーの中だ。いや、いまはキツい炭酸がいい。レモンの入った吐くほど酸っぱいやつだ。
後ろから肩に手を置こうかと考えたけど、結局隣に並んだ。肩を抱いてしまったら間違いなくオレは殺人犯になる流れだ。なにとか回避する手を思いつかないと。いくらオレがバカでもそれぐらいわかる。
「ほら、あそこ見て、向こう側のフェリー乗り場だよ」楓はさっきの話題をすっかり忘れたみたいに海峡を隔てた向こう岸を指さした。遠いようですぐそこのようで、桟橋にオレたちが乗るはずだったフェリーが停まってる。
「みんないまごろ最後のお土産タイムだよね」
そうか、いろいろ予定が変更になってフェリーを降りてからのバスの時間待ちで一時間ほど自由時間になるんだった。オレたちのことも話題になってるかも知れない。オレもさっきの話題は忘れることに――いや、なかったことに――した。
「木川ーっ、ざまあみろ、オレは楓と恋人だらけだぜーっ!」でかい声で叫んでみると、ちょっと気分がいい。
「ね、ね、みんながでっかい望遠鏡でこっちを見てたらきっとびっくりだよね」
楓の言葉にほっとする。これは学校で友達とバカ話してる時の喋り方だ。
「ああ、あいつらなにやってんだってね」ぜひ見せてやりたい。オレがとうとう楓の隣に寄り添っているという事実を。
「ほら、みんなにチューぱいしてるとこ見せてやったら?」楓がオレの肘を揺すっていたずらっぽく笑う。
「えっ、チューパイ?」なんだ、チューパイって。して見せるパイ? 中、宙、チュー、チュー、あっ、チューチュー、チューチューしながらおっぱい!?
「えーっ、していいの?」声が裏返ってしまった。
「ダメ、もう、十秒経っちゃったよ」
「じゃあ、チューかぱいかどっちかだけでも」顔の前で手を合わせてペコペコと頭を下げる。
「このみじめな氷室くんをみんなに見せてあげたいよ」楓がケラケラと笑う。
本当にこれが楓なのか。
楓はじゃまな男を殺すためにオレを利用しているんじゃないのか? そのために自殺をほのめかしたりオレに好意があるように見せたりしているんじゃないのか? 言うことを聞くかどうかおちんちんで試したんじゃないのか?
あまりにも楓が自然すぎる。可愛らしすぎる。魅力的すぎる。
オレは楓を好きでいていいのか。
あいつを殺していいのか。
「なあ、楓って、オレのこと好きだよね?」
確かめたかった。でも、声が震えてしまっていた。
「どうしてそんなこと聞くの?」
オレは首を傾げた楓の目の奥に宿ってる光の意味を読めなかった。楓は怒っているようで、疑っているようで、悲しんでいるようでもあった。ただ笑ってるだけかもしれないけど。