(5:楓のゲーム)
(五)
いま、オレの身体の側面に楓の温もりを感じる。
「氷室くんってさ、なんかその場の勢いで変なことして失敗するけど後になって結果オーライだったってことよくあるよね」
「そう?」褒められた? いや、ひょっとしてディスられてんのか?
「ほら、あの地下鉄テロ事件とか」
「ああ」
ことしの春休みにみんなで都内に遊びに出たときのことだ。駅のホームで電車を待ってたら、急にトイレに行きたくなった。それで、電車に乗り遅れてみんなにボコボコに責められたんだった。一番容赦なく責めてきたのが楓だった。みんなの前では「仕方ないよ、今度から気をつければいいじゃん」なんてフォローっぽいこと言ってるくせに、直接オレには「おまえは保育園児か、オムツでもしてろ、クズ!」とかなんとか、ネチネチガミガミで、もう次の電車が来たらホームから飛び降りようかと思うほどだった。でも、オレたちが乗るはずだったその電車の車内で昼間から酔っ払ってたおじさんが騒ぎながらオシッコ撒き散らして乗ってた人たちみんなが大変な事になってしまったらしくて、乗らなくて正解だったって話だ。
「でも、もしあの電車にそのまま乗ってたらオレがオシッコ撒き散らしてたと思うよ」
「いえてる」
楓が笑う。
今日はきっと全てが結果オーライになる日なんだと、楓の笑顔と温もりに、心に勝手に決め込んだ。
でも、こんなに楓が優しいわけなかったんだ。
ふと潮風に混じった危ない薬のような甘い楓の香りを感じて息を吸い込んだ。
楓はオレの指先三センチを優しくなでながら、手すりの向こう側を見下ろしている。撫でられてる人差し指がむずむずとくすぐったくて、そのむずむずが身体中に痺れを巡らせて、オレの体の人差し指みたいな別の部分をヒクヒクと震わせた。まるでその三センチ同士が繋がってるみたいに楓の刺激にオレの三センチがむくむくと七センチになって、たまらず指先をくねらせた。
「ねえ、ここってすごい高いよね。ここから落ちたらどうなると思う?」
オレは楓の言葉にその気持ちを探ろうとして横を向いたけどあまりに近寄りすぎて髪の毛ばかりしか視界に入らない。
「まあ、ここなら死ぬことはないだろうけど、大怪我確実だよね。顔とか……、傷だらけになってお嫁に行けなくなるぜ」何故か微かに声が震えてしまう。
「お嫁にって、いまどきそんなことおばあちゃんでも言わないよ」楓が吹き出す。
「でも、オレと結婚すればいいんだから安心しろよ」
「もお、氷室くんしか相手がいないなんて不安しかない、死んだ方がマシじゃん」
オレたちはそれで海の方を向いたまま派手に笑いあった。楓はひとしきり笑うと一つ息を吐いてオレに尋ねた。
「ねえ、氷室くんってずっとわたしと一緒にいるわけ?」楓はまるでオレが崖の下にいるみたいに太平洋に向かって話しかけた。
「うん」と当たり前のように頷くと、楓は手を離してくるっとこちらに向き直った。
「ふうん」呆れたって感じの返事にオレも楓の方に体を向けた。楓はオレのようすを頭のてっぺんから足先まで何往復もつまらなそうな目で見て、「ふん」と鼻で息を吐いた。
「ねえ、おちんちん見せて」
「えっ」いきなりの御命令にはっと息を飲み込んだ。聞き間違いじゃないよな。
いま? ここで? 誰もいないけど、いきなり。そんなこといままで一度だって言われたことなかったのに。見たいのか? ひょっとしたら楓はいまオレの三センチが七センチなのに気付いているのか?
「ほら、おちんちん」
もう一度その言葉を口にする楓の目は真っ直ぐこっちのその辺をじっと見ている。
周りには誰もいないはずなんだけど、念のためキョロキョロと左右を確かめて、ズボンの腰に指を掛けた。前をぺろんと楓にだけ見えるようにすればいいか。ウエストゴムのズボンだから、パンツと一緒に一気に下げれば瞬間だ。けど、ホントに出していいのか? いいや、迷うな!
「もういいよ、ださなくて」危うく先っちょが見えそうな時に楓が止めた。それでほんの少しだけほっとした。
「いいの? 見なくて」ちょっと残念な気がするのはオレが変だからか。
「わたしが氷室くんのおちんちんなんか見たいわけないでしょう、氷室くんがわたしの言うことちゃんと聞くかどうか試しただけ。すぐ見せなかったから失格!」
楓は怒ったように頬っぺたを膨らませて、また海の方を向いた。
「ごめん」オレは本能的に謝って、楓の隣に張り付いて並んだ。怒りを鎮め許しを乞ういくつかの言葉を並べてもオレの存在を無視するように海原の先に目をやっている。
「楓」思い切って、楓の二の腕を人差し指で突っついてみた。
楓がキッと強い眼差しでこちらを向いた。
「ねえ、どうしてウソついたの?」
「ウソって?」なんのことだろう、いろいろありすぎてみぞおちの奥がきゅっと締め付けられる。
「ここから落ちたら絶対死ぬと思うけど」
オレは楓の質問の意味を自分なりに考えて、それでさっきの問いかけにモヤモヤしてた頭の中身を整理した。
「もしオレが、ここから落ちたら死ぬって言ったら楓がそのまま飛び降りちゃいそうな気がしたから、だから死なないって言った」……んだと思う……。
それを聞いた楓は感心したようにでっかいため息をついた。
「わたし、氷室くんのそういうとこ嫌いだったの。ダサいし、汚いし、エロいし、頭悪いし、かっこ悪いし、いいとこなんか全然ないし、そのくせみょうに勘だけは良くてさ、どんなに理屈で追い詰めてもとっちめてもいつの間にか平気な顔してわたしの隣にいて。話ししてても氷室くんのペースに引きずり込まれてイライラしてすぐ怒鳴っちゃうし、もう嫌だって思うんだけど、なんかどうしても引っかかっちゃうんだよね。きょうも一人で来ようと思って三十分もトイレに立てこもってたのに突然現れるし、せっかく気持ちが沈んでたのに綺麗な石をくれるし、飛び降りて死のうって思ってたのに死にそうにないなんて言うし。ホント最悪」
「えっ、ほんとに飛び降りようと思ってたの?」
「遺書もちゃんと書いてきてたんだよ。ひどいよ」崖下に吐き捨てるようにオレをなじる。
「やっぱりそうかぁ」どうやらオレは楓の言う通り勘だけはいいみたいだ。ただその解決策を何一つ持っていないのが悲しいけど。
楓はくるりと身をひるがえしてオレから離れると、リュックから白い封筒を取り出して「ほらね」と表に書かれた『遺書』の文字を見せた。
「どうして死のうなんて思ったの」たった二メートルほどの距離なのに大きな声を出してしまうのは強い海風のせいばかりじゃない。
「氷室くんには内緒」楓はキッパリと言い切った。
「ここまで来たんだからさ、悩みとか死にたい理由とか、相談してくれるんじゃないのかよ」ドラマなんかだとたいていそういう流れだと思う。
「ねえ、氷室くんはわたしのこと好きなんでしょ」オレの質問はまるっきり無視だ。
オレは黙って頷いた。
「だったらさ、ゲームをしない? わたしとホントに付き合えるようになるゲーム」
「は?」ゲームで付き合えるとは?
「これからわたしが出すクイズに氷室くんが答えるの。で、正解だったらわたしと付き合えるの。不正解だったら罰としてわたしの言うことをなんでも聞くこと」説明口調で人差し指を立てて指揮棒みたいに振る。
「クイズに不正解だったら付き合えないってこと?」
「ううん、わたしの言うことを聞いてくれたら付き合うよ。わたし、どうしてもその願いを叶えたいの」
「うん、やるよそのゲーム」楓と付き合えるならゲームをやって損はない。楓のためなら人殺しだって構わない、どんなことだってやってやるさ。
「じゃあまずクイズね。ねえ、サンタクって得意?」指揮棒の先をちょっと傾けた頬っぺたにあてる仕草が可愛すぎる。
「サンタク?」サンタクってなんだ?
「うん、三つのうちから正しいと思うものをひとつ選ぶの」楓が右手を顔の前にあげて指を三本立てた。あの三本がさっきまでオレの指先を撫でてた指だ。指揮棒一本振るだけでも神なのに、あんな綺麗な手がオレの七センチに……、いや三センチに触れていたんだと思うと気持ちは一層盛り上がる。
「ああ、オレ考えるのはダメだけど答え選ぶだけなら楽勝だね」三択ってやつか。それなら勘を頼りにしてもなんとかなる。
「じゃあ、このあと氷室くんがなにをすればいいか、次の三つから選んでね。考える時間は十秒だよ。いい?」楓がルールの説明をする。
オレは十秒という設定に結構ビクつきながら頷いた。
「さっきの失敗を取り返してよ」楓がニコッと笑って頷いた。そんなにちんちんが見たかったのか?
「じゃあいくよ。〝氷室くんはどうする?〟ゲーム!」冬休み前にやってるレクレーション大会の司会者みたいに乗って拳を突き上げる格好をする。
この軽さなら楽勝だ。
「いち、わたしと一緒にここから飛び降りて死ぬ。
に、わたしが飛び降りて死ぬのを見届ける。
さん、わたしが死なないように引き止める」
ひでえ、これじゃあ惨択だ。いちもにもありえねえ。楓は腕時計を見ながらチッチッチッとタイマーの口真似を始めてる。そんなに軽くていいのか、遊んでんのか?
「じゃあ、〝さん〟」それしかない。
「ぶっぶー、残念でした。正解は〝いち〟でーす」待ってましたとばかりに嬉しそうにあごを突き出して不正解を告げる。
「あ、くっそ、やっぱ〝いち〟か」なんかそんな気はしてた。ただ、現実としてそれは受け入れられなかった。
「あーあ、氷室くんがわたしなんかと一緒に死にたくないって思ってることがよく分かったよ、おちんちんだって見せてくれないし」わざとらしく肩を落として沈んだ悲しそうな声をする。ちんちんだったらいま直ぐ見せてやってもいい。
「いいや、違てって! オレ楓と一緒に生きてていんだよ!」焦る、焦る。
「もお、せっかくのセリフ噛み噛みになってちゃダメじゃん。でも、わたしのお願いを聞いてくれたら一緒に生きてあげてもいいよ」
「おう、楓のためならなんだってやるさ」さながら勇者にでもなった気持ちで女神様の前で仁王立ちになった。