(4:楓の恋人)
(四)
「あ、イヤリング」
シルバーに青い小さな宝石みたいのが付いてる可愛らしいデザインだ。女の子ならアクセサリーに興味はあるだろう。ほら、と楓に見せた。
「ほんとだね、誰か落としたのかな」それをちらっと見て、たいして興味なさそうにつぶやいた。
「もう片っぽも落ちてるかも知れないなぁ」足元の周りを見回してみた。
「そんな落ちてるイヤリングなんか拾ってもしょうがないでしょう」
「使わない?」これは耳たぶに突き刺すやつじゃなくてネジで挟むやつだ。これならいまの楓だって使えると思う。
「気持ち悪いよ、そんな誰のかわかんないイヤリングなんか。カラスじゃないんだから目に付いたからってなんでも拾わないの」呆れたように鼻息を吐く。口調がまるで母ちゃんだ。
「そうだね」楓の受けが悪かったらしょうがない。手にしてたイヤリングをもし持ち主が探しに来たとき見つけやすいようにと散策路の端の平たい腰掛石の上にそっと置いた。
楓はそれを見て「いい子いい子」と頭を撫でる真似をしてくれた。
「どうせ拾うんだったら綺麗な石ころとかにしたら? 赤いのとか白いのとか」
「それならあるよ」オレはズボンのポケットからふたつの石を取り出して手のひらに乗せて楓の前に差し出した。どちらも五百円玉ぐらいの大きさで、ひとつは楕円形もうひとつはしずく形になっている。
「ほら、さっき拾ったの。青くて透き通ってんだぜ、綺麗だろ」
「あんたホントに落ちてるの拾うね」楓が呆れたようにしずくの方をつまみ上げて顔の前に持っていった。楓がオレをあんたと呼んでくれたのがひどく嬉しかった。
「おまえがこういうの拾えって言ったんだろ」オレも思い切っておまえと呼んでみた。怒鳴られないかとドキドキする。
「これはね、石じゃなくてガラスだよ。海岸で割れたラムネの瓶とかが波に揉まれて削れてできたやつ」
「あ、知ってる。大昔はこの辺りも海だったってことだろ」修学旅行の地域学習で島の成り立ちを調べたんだった。プレート同士がぶつかって海の底が隆起した。
「あのね、この辺りが海の底だった何万年も前にラムネの瓶なんかないし、どっちかと言うといまでもすぐそこが海だし」楓が振り向いていま登ってきたロープウェイの駅の方を指さした。
「ああ、そうか」確かに木の間から海が覗いている。
「だからこれは誰かがどこかの海岸で拾ったのをこの辺で落としたものってこと」
「ロマンだね」どうやってここに来て、どうしてここにいるのかな。
「あんた頭わいてんの?」いつものキツい楓の感じがして嬉しくなる。
「まあいいじゃん、二個仲良く落ちてたんだし、オレと楓と、一個ずつ持ってようぜ」まあるい方の石を振って見せる。
「そういう意味ありげなものはね、好きな人同士で持っとくもんでしょ」
「ならさ、オレ楓のこと好きだからちょうどいいじゃん」
「もう、〝同士〟って意味分かってんの?」そう言いながら楓は石を光にかざすように目の前で揺らしてふっと微笑んだ。
「氷室くんってホントいつも一方的で。わたしのストーカーだよね」
笑いながら肩にかけたリュックを胸に回して前ポケットに大事そうにしまった。
捨てられるか突き返されるかと思ったのが、意外にも高評価で手元に置いてくれたことにオレは調子に乗った。
「二人の絆だからな、一生大事にしろよ」
「はいはい、死ぬまで大事に持っときますよ」楓の言葉があまりにも昔話のおばあさんみたいなしゃべりかたで思わず二人して顔を見合わせて吹き出してしまった。
オレはこのとき、楓の気持ちがあのクソバカカス変態アダルト野郎からオレの方にパタンと切り替わった音を感じた気がしたように思ったんだった。
恋人たちの聖地は山頂近くの崖の上に円形に作られた広い木製の展望デッキだった。そのデッキの太平洋に面した一番見晴らしのいい場所に二人が並んで立てるぐらいの小さな真っ白な鳥居があって『神島弥山恋人たちの聖地』と刻まれたプレートをはめ込んだ台が置いてある。そこに並んで記念写真を撮るスポットになっているんだ。
台には神社によくあるでっかい鈴が付いていて二人で鳴らすとご利益があるらしいことが観光パンフレットに書いてあった。
オレたちは先客達が鳥居のところで記念写真を撮ったり鈴を鳴らすのが終わるのをデッキを巡りながら待った。
ようやく空いた鳥居の中に楓は立ってデッキの手すりに手を置いて目の前に広がる太平洋を眺めて深く息を吸った。
少し気が引けたけど、オレもちゃっかり楓の隣で聖地の鳥居の中に収まった。視界がぱあっと拡がって、目の前が真っ青に染った。
「すげえ、海だらけだ!」
そこにはもう海しかなかったんだ。
「そりゃ、海だらけだろうけど」オレの魂の叫びが楓の笑いのツボにはまったみたいで、とつぜん腹を抱えてバカ笑いが始まった。
「ひぃー、もっと、なんか、ひっひっ、うまい言葉は、なかったの、っはっはぁーくっくっ、苦しいぃ」
楓のこんなガキっぽい姿はいままで一度も見たことがなかった。
なかなかいいもんじゃないか、好きな女の子のバカ笑いってのも。オレは彼女の笑いが治まるまで、この騒ぎに乗じて、しゃがみ込んでデッキの床を手のひらで叩いてる楓の背中を一生懸命さすってあげた。ワンピースのサラリとした薄い生地越しに隠された下着のベルトを感じて手のひらが汗ばんでしまった。
「あーあ、もう一生分笑った」
楓は立ち上がって大笑いの名残の目尻の涙のあとを指先で押えながら、もう片方の手でオレのひじを引っ張った。
「ほら、海だらけのここで一緒に鈴を鳴らそ」
!? オレが恋人たちの聖地で楓と一緒にこの鈴をラブラブ鳴らしていいのか?
「えっ、いいのかよ、オレなんかと恋人だらけになっちゃっても」真剣に言ったつもりなんだけど、楓はそれに必死で笑いをこらえてた。
「うんいいよ、わたし、いまけっこう氷室くんだらけになってるから」
オレははっきりいって幸福のど真ん中にいた。いままで手を握ったことだってなかったのに、お互いの腰に手を回してくっ付き合って並んで鈴を鳴らし、ツーショットの写真を撮った。
いってみれば結婚式のケーキ入刀のまねごとみたいなもんだ。その鈴がまるで地面を転がるやかんのような低く鈍いガラゴロという爽やかさの欠けらもない音を響かせても、楓の笑顔がこの世界の全てを天国に変えた。
オレと楓は展望デッキに人がいなくなったのをいいことに、聖地の鳥居をすっかり独占してしまった。
そこに並んでデッキの手すりにもたれて、海風に吹かれ潮の香りを吸い込んでいた。
並んだオレと楓の間にはたった七センチほどの隙間しかない。これはもう、くっ付いてしまっても同じじゃないか。二人とも腕組みをしてそれを手すりに乗っける格好になってるんだけど、少し指先を伸ばせば隣の楓の肘に触れられそうだ。中指と人差し指をシャクトリムシみたいに手すりの上を這わせて楓に三センチ近付けた。あとまだ四センチ。ちらりと楓の横顔を盗み見た。
遠くを見つめるちょっとまぶしそうな、寂しげな、穏やかな、ああ、もう、たまんなく好きじゃんかよ、なんでそんなに可愛いんだ、大人っぽさまで上乗せされて、もう犯罪じゃん。
誰も見てないんだから、ガバッと抱きついてもいいんじゃないか?
さっきは初めての共同作業みたいなことだってしたんだし、肩を抱くぐらいならアリかナシかと言えば断然アリだろう。
隣をちらちら見ながら頭の中では既にチューチューしながらおっぱいにだって手を回しているのに現実では一ミリたりとも接近できていない自分に焦り始めていると、楓が前を向いたまま、ぽつりとつぶやいた。
「海だらけだね」
オレはさっきの突拍子もない叫びをまた蒸し返されたのかとドキリとして身構えた。なぜならきょうの楓は結構優しくてカワイイけれど、基本的にコイツの性格はキツくて執念深い毒クモ座AB型の女だからだ。
「ほんとうに、海だらけ」こちらに顔を向けてニコニコと笑ってる。
「さっきは笑っちゃったけどね、よくよくこの景色を見てたら氷室くんいいこと言うなあって思ったの」
「だろ、オレって結構いいこと……」言いかけて、伸ばしてた二匹のシャクトリムシを楓の手がきゅっと捕まえて、声が出なくなった。
「ほんとに、来てよかった」楓の言葉に健全な迷いを断ち切って、指先を包む温もりの方へ体を滑らせた。