(3:楓の香り)
(三)
「楓……」
呼びかけて、これからどうする? という問いを飲み込んだ。
はっきりいって聞くのが怖い。
帰りのフェリーにはもう絶対に間に合わない。なのに平然と当たり前のように違う道を進んでいる。
こっちの道は山頂へ向かう登山道で、この先にあるのはロープウェイの駅ぐらいだ。
集合場所じゃいまごろ大騒ぎになってるはずだ。なんでもないことでも大騒ぎになる北倉先生なんだぞ。
やべえよ楓。
「ごめんね」楓がホテルのやわらかすぎる枕の話題を断ち切っていきなり謝ってきた。
「いいよ」いや、よくないけどそう言うしかない。
「そのバッグ重たいでしょ」
「あ、や、全然」そっちの方か。楓のボストンバッグは女子トイレを出たときからオレが大切に持たせていただいている。
理由は着てる服に似合わないからだそうだ。
おかげでオレは自分のボストンバッグとリュックと合わせて全身がバッグだらけになっている。
「ホント? なんかさっきから元気なさそうだから」
それは荷物の重さのせいじゃなくて楓との将来への不安が原因なんだよ。
「あ」
楓が立ち止まってリュックからスマホを取り出して画面を見た。かすかにバイブの振動音がしている。
「まなちゃん」と言ってオレに向かって唇に人差し指を当てて静かにと合図した。
「はい、あ、先生」
まなちゃんは北倉愛美先生のいくつかある呼び名のひとつだ。なんでも彼氏にそう呼ばれてるってウワサなんだそうだ。ウワサの出どころは先生自身だそうだけど。
さて、この状況を楓はどう切り抜けるのか。
「先生……、わたし……」楓はいきなり泣きマネを始めた。すごい迫真の演技だ。ほんとに泣いてるようにしか見えない。女の先生に泣き落としはいいアイデアかも知れない。
「ごめんなさい、わたしがトイレに行ったら、氷室くんが追いかけてきて……、わたし、びっくりして怖くて声が出なくて……」
えっ、オレ?
「それで、中でずっと……。先生、ごめんなさい、わたしどうしよう」
オレ、なにしたの、『ずっと……』てなに、ちょっと。
楓がすすり泣くように声を震わせながらオレの方を見てすました顔で微笑んでまた〝黙ってるように〟と口元に人差し指を当てる。
「はい……、氷室くんも一緒です、すこし離れたとこに……、はい……、はい……。わかりました……」
通話を切ってスマホを顔から離すと、ホッとしたように息を吐いた。
「遅れた人のためにまなちゃんが島に残るんだって、三組も何人か遅れてるらしいよ。穂村さんはなんにも悪くないんだよって言ってくれたから」迫真の演技の名残か楓が目尻に滲んだ涙を指先で押さえてる。女の涙と嘘は怖ぇ。
「あれじゃあ氷室くんはまるっきり悪者じゃんか」おそらくオレは怒られるぐらいじゃ済まない。急いで自分のスマホの電源を切った。
「でも、わたしなんにもウソは言ってないんだよ、まなちゃんが勝手に妄想してるの、あの子いっつもエロいから」
楓の涼しい顔に気温が10℃下がったような気がして背中がひやっとした。
あわてずに、次のフェリーに間に合うように集合場所へ来ればいいという先生の指示だったようだけど、ロープウェイの登山口駅に着くと、楓が山頂までの切符を二枚買ってその一枚をまるで母ちゃんがするみたいに「はい」とオレに渡した。
次のフェリーって何時だろうと気になったけど、スマホの電源を入れるのが怖い。
駅のコインロッカーに二人のボストンバッグを押し込むと班活動用のリュックだけになってなかなか身軽になった。
改札口には警官の姿もあって、事件の影響なのかロープウェイの中はオレたちの他は二組の年配のカップルだけだった。二人掛けの座席の窓側に楓を座らせて隣に張り付くように並んだ。
「空いててよかったな」と言いながらも窓の外を眺めるふりで、楓に体の左半分を密着させた。
それで、山頂近くの弥山駅に着くまでの十分あまりの空の旅の間、窓の外の景色を眺めている楓の横顔をずっと見つめていた。ときどき楓が目に付いた建物とかを指差して話し掛けてきて、そのときだけはいかにも景色を見てましたよって感じで楓との会話を楽しんでいた。化粧のせいなのか楓は甘い香りに包まれていてオレは緊張して何度も唾を飲み込まなければならなかった。
ロープウェイを降りると楓の緊張から解放されてホッとする。くっついていられるのはいいんだけど、刺激が強すぎてくらくらしてぶっ倒れる寸前だった。体中の血液が一箇所に集まったみたいにその部分がズキズキとうずいて痛くなってしまった。こんな子とフードコートでチューチューしながらおっぱいを揉みまくるなんて命がいくつあってもムリだ。
駅の出口で楓は大きく腕を上に伸ばしてぐぐっと伸びをすると、二段ばかりの階段を両足を揃えて弾むようにぴょんと飛び降りた。
その姿がすごく子供っぽく見えてオレは心の底から安心した。
駅からは山頂の展望台まで十五分ほど山道を歩くことになる。ロープウェイを降りた客もそちらに向かっていく。オレたちはあとの方からのんびりと行くことにした。
「すっごい景色よかったよね」
「オレ、ずっと楓の顔ばっかりみてたよ」いつものように冗談ぽく言ったんだけど、それに楓はちょっと考えるような顔をしてからニコッと微笑んで「ありがと」とかわいく首を傾げた。
春の遠足で榛名山に登ったとき同じようなことを言ったことがあった。
「あのさ、ここでしか見られない景色を見ないでわたしの顔なんか見てるなんてバカじゃないの」と言われたんだった。
さっきのありがとうの意味を考えながら、こういうときに気の利いたことが言えないオレはつくづくバカなガキだと思った。
「あのね、弥山の展望台って、どうしても行ってみたかったの。ほら、恋人たちの聖地って言うでしょ。すっごく憧れてたの。せっかくきょう午前中に行く予定だったのにあんな事件で中止になって。でも、やっぱりどうしても行きたくてね、それで単独行動をとることにしたの。だって、ここにはもう二度と来れないかもしれないでしょ」
そんなふうに思うほど行きたい場所ってどんなところなんだろう。
「そんな大事なところにオレと一緒でいいのか」きっと楓は誰か大切な人と行きたいはずだ。あのクソエロ高校生か。
「なんで? もともときょうは百人の団体で来る予定だったんだよ。そんな関係ない人なんか何人いたって、いてもいなくても同じだよ」
「そうだね」そうだろうけど、オレまで関係ない扱いされてるのはちょっと哀しい。
家が近所だった楓は、小学校ではずっと同じクラスで、小さい頃から持ち物や宿題をよく忘れるオレに声を掛けてくれたり調子に乗ってやらかした失敗事をフォローしたりしてくれて、そんな楓をオレは初めは面倒臭いやつだと思いながらも、いつしかなくてはならない大切なひとだと思うようになっていた。
オレが楓にくっついて、楓はオレの面倒を見る。
男女の違いを意識し始める学年になった頃にはクラスメイトに〝夫婦〟とかってからかわれたこともあった。それでなおさら楓の塩対応がキツくなってったってこともある。
だけど、どんなことがあっても楓は隣にいるとなぜか安心できる、そんな特別な存在だったのだ。だから塩を撒かれながらも、楓がオレのことを本当はどう思っているのかということが、いまのオレの最大の関心事でもあった。
それが、好きとか嫌いとかそういう〝+〟でも〝-〟でもない、無関係という〝0〟の扱いが、ショックだった。
楓にとっての〝+〟は結局あのクソ野郎だけなのか。
がっくりとうなだれたら足元に光るものがあって拾い上げた。