新たな入れ替わり?
朝っぱらかひと騒動あったものの、元の身体で椅子に腰を下ろした。
「ったく、なんでこんな目に合うんだかな……。」
回し読みされたノートに描かれた猫を丁寧に消し、消した後には授業内容を思い起こしながら簡単にまとめていく。
何だったかなと零しながら記憶を掘り起こして筆記を進めていく、二時間目が始まるまでには多分間に合うはずである。
全体をまとめるにはそう時間が掛からなかった。二時間目が始まる七分前には大体の事柄を筆記することに成功した。
面倒なことが終われば大きく背伸びして背骨を伸ばすとバキバキと音が鳴り、思わず大きく吐息を漏らす。
視線を教室の前へと向ければ東坂楓が教室に入ってくるのが見えた。
彼女は綺麗なブロンドに染めらた長髪で群青色のシュシュにてサイドテールを作っており、身長としては女子の平均値ほどである。
肌白で日焼けなどを相当気にしていそうな細く美しい手をしている。それに眼窩に埋まる碧眼は異国情緒を感じさせ、親の血をより濃く継いでいる。
今時の女子らしい猫のスマホカバーがつけられたスマホをいじり、電源を落としリュックのサイドポケットに入れるとふとこちらへと視線を向ける。
視線が合えば彼女はぱっと笑みを浮かべ華やかなものとなる。中央の自分の席にリュックを置くと、ささささっと近寄ってくる。
「ようようよう!おはようなのぜ、タクミ!!」
元気溌剌といった挨拶をしてくるのだが、二時間目が始まる目前に教室に入るなんてとんでもない重役出勤だ。
「おはよう楓、随分と遅いじゃないか。」
軽い笑みで応対すると彼女ははにかんで少し恥ずかしそうにして答えた
「ちょっと寝坊しちゃって。昨日ちょっと色々立てこんでいたからさ。」
「どうせ映画でも見て泣いて勢いで夢小説書いていたら遅い時間だったって落ちだろ?」
「ちーがーうー、なんでそんなこというのかなぁ。もっとマシな理由です!!」
「宿題をやり忘れて一時間目を欠席した奴が何を言うのやら。」
図星だったのかかなりバツの悪そうにして目を逸らす。
「……英語のババアめっちゃ怒ってた?」
「心底から呆れていたよ、あとで職員室に来いってさ。」
「うっ、助けてよタクミぃ~。」
今にも泣いてしまいそうな顔で抱き着かれしまうのだが、自分になにができるのであろうか。というかお前の親バリバリ英語話せるだろ、なんで英語の宿題が全くできないのかわからなかった。
「タクミ……助けてくれないの?」
「どうして回答を見せなきゃいけないんだ、自分でやれ。分からなかったらもう一度来い。」
自分の望んだ一番楽な道が叶わないと知ると、口を閉じぷくーと膨れ上がる彼女である。
だが妙案が思いついたのか満面の笑みで少し自身の胸を二の腕に押し付ける。
「イ イ コ ト してあげるから教えて♡」
突然の色仕掛けであるのだが、大抵の男であるならこんな安っぽい行為以前に回答を見せているほどの美貌を持ち合わせている。
本人もそれを理解している。読者モデルをやっているだけあって相当な自信を有している。だからこその……。
「アホか。」
脳天へと軽いチョップをおみまいしてやるのだ。魅力勝負に対しては持ち込まれては否定するのも一苦労だ、だが軽い力で叩くだけでカウンターとなるのだから一手をお見舞いするほかにないだろう。
「あいたっ!」
脳天チョップに対してぷくーと頬を膨らまして文句ありげに見つめてくるのだ、そして涙をにじませてなおのこと歎願するかのような目となりずっとこちらを見ていた。
「ダメだぞ、分からなかったら教えてやるが、それ以前の問題には付き合わないからな。」
「もー!!ドけち!アホ!安普請!」
両腕を持ちぶんぶん揺さぶられるのだが、赤べこの如く揺れ動く頭の中呟く。
「安普請は違うだろ、というかなんで安普請なんだ。」
「タクミは安普請がお似合いなんだよ!せっかくお出かけに誘おうと思ったのに!!」
両腕から手を離し、とても憂いている目をしてこちらを見ていた。きっと彼女もあの時からの変貌ぶりに何とかしようとして話題を振ったのだろうが、今としては余計なお節介ではあった。
彼女から付き合ってくれと告白されてから早数年が経とうとしていた。
高校に進学してなおも気を使ってくれること自体には感謝しているが、今までの自分を演じている自身に対して乾いた感情を感じるので正直辛かった。
心底から反吐がでる笑みを浮かべながら答える。
「ったく、いつも婉曲なんだよ。もっと素直に言えばいいじゃないか。」
「だって。」
彼女は目を伏せがちにして答えを言うことを躊躇っている。
きっと彼女も離れてほしいという気持ちを理解していて、だからこそ彼女なりに思うところがあるんだろう。
ここではいそうですかと離れてしまえば自分がたった一人になってしまうと思っている人間であったのだ。
自分に向けている甲斐甲斐しさを他人に使った方がよりよく生活できるのだろう。そう思ってしまうとなおのこと彼女には忘れて欲しかった。
葵みたいに一緒に落ちぶれて欲しくなかった。たった一つの小さな願いすら彼女には話せてはいないのだ……。
自分の情けなさに辟易としながらも腕を組み、彼女へと視線を逸らす。目の前には褒めてくれたノートが一つ置かれていた。
嗚呼、自分が”走れた”ならどれほどまでに幸せだったのだろう。今は遠い想像に身を委ねて背もたれに身体を託す。
身体は多くの罪を抱えていた。どれほど罪を他者に託そうとも救いようのないほどに卑屈な精神性によって低減することはなかった。
自身の持つ罪を肩代わりした葵の方がずっと苦しそうな顔をして、笑顔も失っていった。だからこそ彼女には絶対に漏らすまいとしていた。
彼女には何の関係のない事柄であるためである。そして自分ができる唯一の彼女にしてやれることであったからだ。
であるからこそ拒否反応として背もたれに身を託したのであった。
「でさ、タクミ。今週の土曜日にも一緒に映画か買い物にでもいかない?」
「……なんで俺を誘うんだ。お前の友達を誘えばいいじゃないか、教室の外で待ってる子たちと一緒に。」
彼女が教室の入り口を見ると視線に気づいた三人の友人が手を振って挨拶していた。
友達へと簡単に手を振りこちらへと向き直り小さく微笑みを見せてポケットから一枚の紙きれを取り出す。
「はいこれタクミの分、昼の一時一五分の映画の予約票、高校生割もいれて千円払っておいたから。」
んっ!とノートの前に置かれる予約票なのだがあまりの強引さに思わず眉を顰めて鼻元をつまむようにしてもみほぐす。
「……お前本当に言うことを聞かないよな。」
「そんなこと言って、結構気になってるんじゃないの?だってタクミが気になっているって言ってた漫画の映画だし。」
「気にはなっていたが好きなわけじゃないんだがな。ったく、お前分かってやってるだろ。」
問い詰めるかのように尋ねるのだがわざとらしく笑みで返すのだ。
「まっ払っちゃったからねぇ。いやー困っちゃったなぁ~、余分に買っちゃったからなぁ!」
「わかったわかった。明後日の映画いってやる。それでいいんだな?」
満足いく回答が貰えたからであろうか、彼女は屈託のない笑顔を浮かべ頷いていた。
葵に比べてかなり元気溌剌な彼女はこうした笑みこそが最大の武器であった。だが自分には幾分か眩しすぎる。
「じゃあ明後日の昼にね。」
そういって彼女は自分の席に戻り、授業の準備を整えるのであった。
ため息と共に右手で顔を拭うように触れると冷や汗が溢れ出ていた。楓にバレたかバレなかったかわからないが、随分と緊張していたことは理解できた。
自分とってしてみれば他人と関わることに対して常にマイナスのことの方が大きかった、その前例が葵である。
中学の頃の辛い顔をした葵を見てきた自身にとって関わらずに消えることこそ幸せなのだと思ってしまった。現に葵は一応体裁としては笑みを浮かべるまでに戻ってくれた。
それが間違っているのだと心の奥底では理解しているのだが、一歩踏み出すのが恐ろしかった。心というのは如何に壊れやすく、弱々しいものだと理解してしまったゆえの感覚であろう。
ただただ”願ってしまった”。
人を知って、強さを手に入れてしまえばどれほど良いのだろうと。
瞬きと共に窓際の椅子から教室真ん中の椅子に座っていた。
突然のことに理解が追い付かなかったが、入れ替わりが起こったことだけは理解できる。
今の座っている席は中央で、眼前にはブロンドの髪がかかっておりまさかとカバンを見てみれば楓のリュックが目の前に置かれていた。
二時間目の数学の教材を持っていたがいったん中に戻し、窓際の自身の身体をみると。
そこには全く理解できていないといった顔で興味深々に身体を見回す楓がいた。
それからは早かった。困惑気味の彼女の元へと行けば見えない程度に股間を触って驚いている右手を強く握るのだ。
意識外から握られたということに心底からびっくりしたらしく、身体全体がビクッとしていた。
右手を握られたと防御的な反応を見せる楓であるが、自分の身体が見えて少しほっと顔を緩ませる。
「あっ、えーとタクミ、だよね。」
当惑している彼女の顔はなんとなく理解はできるが、認識が追い付いていないといった風である。
とりあえず自分の股間を触っているのは体裁が悪いので右手をひっぱり、耳元で囁く。
「こっちに来い、少し話がある。」
「でも授業があるけど。」
「その身体で自分の席に行くつもりかよ、ひとまず説明するからついてきてくれ。」
自分の身体を引っ張る形で教室を出ていけば別教室から出てきた葵が見えた。
彼女は楓に引っ張られる自分を見て少し訝しげに見つめて挨拶してきた。
「匠、どうしたん。二人でデート?」
「えっ、ああ違うぞ葵。俺はこっちだ。」
「へ?」
驚いた顔をして楓の顔を見つめていた。葵にとっても想定外だったらしく数秒の間呆然としていた。
「……二人とも入れ替わったってこと?!」
「そうなんだよね、いい体しているよねタクミって。」
えへへへーと顔を緩ませてにへらといわんばかりの笑みを浮かべるのだが……。
「匠がそんな顔するとなんか気持ち悪いね。」
同情をするかのような顔をしてこちらを見てくるのだが、全くもってその通りだと思った。この時ばかりはバカと意見の合致するのであった。
「同意だ。とりあえず授業が始まるまでにさっさと終わらせるぞ。」
そういって階段の踊り場へと向かうのである。