決意
雫と二人歩く放課後の足どりは重々しくあった。それは子を亡くした親のような足取りの重さではない、もっとしょうもない重さである。
今猛烈にトイレに行きたいのだ!
あの馬鹿トイレぐらい自分の身体の時にしろって思ってしまうが、まあこんなことになるなんて想定してなかったよなと思えば攻めても仕方がないだろう。
それに自分も人のことは言えなかった。いつも下校前にトイレをする関係上彼女も同様の状況に陥っていることは違いない。
別段自分の身体を他人に見られることはさして興味はないのだが、なんというかあいつに見られるのはなんというかちょっとだけ恥ずかしいと思う自分がいた。
「はぁ。」
仕方のないこととは言え、肩を落としてしまう。
「どしたどした?葵がため息なんて珍しいじゃん。」
「んっ、あーまあちょっとね。」
「その様子だと告白で言いたいこと言えなかったんでしょ?」
「えっああそうだね。よくわかったね。」
「なんて言うつもりだったの~。」
「えー、まあ言ってもいいけど、ちょっと恥ずかしいからさ。」
「またまた~、どうせ匠君のこと気になっていたのは知ってるんだから。」
にへへと笑う彼女は子供ながらの純真さと天真爛漫さを兼ね備えた最強の笑みであった。
多くの男の心を奪いかねないその笑顔は思わずドキッとしてしまうが、極力顔に出さないように気恥ずかしい様子で対応する。
そんな自分に近づくと耳元で囁くのだ。
甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「……それとも、何か言えないことでもあるとか?」
彼女の言葉に心臓が止まるかの思いであった。彼女は気づいたのか?
不器用ではあったことは間違いないが、それでも誤魔化せていると思っていたのだが。
それにこんな非現実的なことを考えるとも思えない。きっとイタズラなのだろう、そうとしか思えないのだが、一応ここは。
「……秘密、って言ったら?」
「ふーん、なるほどね。」
そうだね、と零し彼女は髪の一部をくるくると指先でロールさせる。
「まっいいか!葵、匠君としっぽりやってきなさい!!」
「しっぽりって、そんな中じゃないでしょ。」
「遅かれ早かれだよ!”こんな”こと初めてなんだから。」
「はいはい、じゃあまた明日、雫。」
そういって彼女と別れて屋上へと向かうのであった。
屋上へと向かう道はなんとも華やかな物を見る目線で溢れかえっていた。それはアイドルが歩いている様といって差し支えないほどだ。
端麗な顔立ちにボーイッシュな髪型、学校随一といっても違いないほどの彼女なのだ。それに元陸上部のエースでもあった彼女は男女共に人気でもある。
といってもそれは中学の時を知る人間たちの間でしかなかった。彼女はあの一件から陸上部をやめてしまったのだ。
全国だって走り抜けられる健脚を持ち合わせていたにもかかわらずだ。
彼女のことを想う度に右足が痛む、歩行に支障がないにもかかわらず。入院時の担当医に言っても歩行機能に問題はないと言われた。
きっと自分の心の弱さが痛みを引き起こしているのだろう。栄光の彼方まで征くはずの彼女がこんなにもなってしまったことが……。
愛想よく周りの人間に手を振る中、痛かった。栄光の一端を掴んだ彼女への羨望と期待感が胸を貫く。
心が痛かった。今にも張り裂けそうな胸の痛みが襲ってくる。
一歩一歩歩く足は重くなっていく。
こんなにも期待されていた人間をやめさせてしまったということに怒りが沸々と湧いてきて、栄光を手にできずこうして腐っている状況を嬉しく思う自分にも怒りを感じてしまう。
腐っているのは自分の方だと、歩く度に感じてしまう。
そうして屋上の扉を開ければ彼女が待っていた。
燦々と降り注ぐ日光を背に、自分の読みかけの小説を読んでいるようである。
柔らかな春の風、まるで春陽を感じさせる風邪は優しさは彼女の在り様と感じてしまった。
ドアの開く音と共に本へとしおりを挟み閉じる。そして嬉しそうに笑みを浮かべるのだ。
「やっときたね、タクシュー。」
「……ったく、何てこといってくれたんだか。」
「その方がこうやって会う分には都合がいいじゃん。」
「まあ確かに会う分にはいいかもしれないが、だがなぁ。」
苦々しい顔で眉間の左右を右手でぐりぐりとしながら呟く、確かに彼女の言い分は正しい。
けれどもっと穏当な方法で、誤魔化す方がずっと良かったのである。
そんな自分の考えを見透かしたような目をする彼女は悪戯気味に笑い、口に指をやった。
「……タクシューはこんなに情熱的なのが好きだもんね。」
「それは昔の話だ。今はもっと大人しい子の方が好きだよ。」
「なら貞淑な子になればいいの、雫みたいな外見に?」
「んっまあ……。」
確かにグラビアなどで貞淑さを感じる子に魅力を感じない人間ではないのだが、いまいち股間にビビッとくる趣向というわけではなかった。
「というか雫ってそんなに貞淑か?」
「結構ガシガシエロいこと言ってくるし、かなり貞淑じゃないかも。」
「だな、さっきも行きしに言われたしな。」
「本人結構エロ親父みたいな感じではあるし、なんというか貞淑じゃないね。」
うんうんと頷くのだが、エロ親父扱いされる雫に対しては結構的を得ているなという所感であった。
「って本人フェチとか薄いっていう割にはかなり濃いよね。尻とか肩の形とか、女装趣味の男の弱々しい顔が好きで、男の娘がスカートを恥じらいながら来ているところが好きとか。」
到底自分には理解できない趣味嗜好ではあるが、一定の尊重だけは備えていた。
まあ自分にだって人に言えない嗜好が存在しているし、他人がねじ曲がった欲求を抱えていても問題がないのだから。
「やめてやれ、人には一つ二つ言えない趣味ぐらいあるだろ。」
「確かにねー、そういうタクシューはどうなのよ。何か一つぐらいあるんじゃないの~?」
嗜虐的で悪戯じみた笑みを浮かべる彼女だがそんな彼女へと視線を合わせずに答える。
「……それは、秘密だ。」
自分の顔を見た彼女は笑みが消え、どうにもばつが悪そうに目を下にやり思慮しながら小さく唇を噛む。
手持ち無沙汰の手を握ったり、人差し指に親指でさすったりしている。
彼女の癖の一つであった、この時は大抵自分を責めるときであった。
「やっぱり、言えないんだね。本当にごめん、私がちょっと馬鹿なことをしたばっかりに。」
二人が瞼を閉じた次の瞬間には自分は元の身体に戻っていた。
「……お前は何でも背負っていけるはずだ、こんなことに迷わされるなよ。」
「でも、でも、タクシューを置いてはいけないよ!二人で行くって約束したじゃん!そんなに傷ついて、助けてっていってるタクシューを置いていけない!!」
「俺はいいんだよ、お前さえ幸せならな。」
そうだ、俺は彼女の人生においては部外者にほかならない。あくまで成長するきっかけでしかなかった。
自分の独善なのかもしれないし、これは正しくないことなのかもしれないが、今からは彼女の後ろを追いかけることさえかなわないだろう。
眩しかった。
苦しかった。
伴走する悦びも、競争することさえも金輪際あり得ない。
折れてしまった翼は二度とはばたくことがないのだから。
自分のリュックを持ち、屋上を後にする。
残されたのはたった一人の少女であった。だが彼女の目は諦めなんて知らない顔であった。
どこまでも照らし出す日光の如く強い意志がそこにはあった。
「絶対に、救って見せるからタクシュー。」
ただ猛烈な尿意にはかなわずトイレに駆け込む結果になったこと以外は完璧なことであろう。