恋人
パンパンと膝についた水滴を払いつつ、自分の身体をなった彼女を見上げる。
「さてどうしてこうなったのか、疑問は尽きないが。ここから転落したから、だろうか?」
「どうだろうね、多分その可能性もあるけど。多分違うとは思う、ああこれはあくまで直感での話ね。出も試してみる価値はあると思う。」
「ならできるだけ条件を揃えよう、上がった上がった。」
ぞんざいに扱う自分に、はいはいと笑みを見せ一歩一歩上がっていき、こちらも葵が話していた位置へと立つ。
そしてわざとらしく足を滑らせててまるっきり一緒の恰好ですっころんでくるのが見える。
ドン!!
またも二人が激突するのだが、変わることはなかった。
「あいててて、タクシュー大丈夫?」
葵の身体に馬乗りになる自分の身体は随分と重たく、随分と男らしく感じてしまった。
彼女はあっと呟きながらそそくさと立ち上がり手を伸ばした。その手を取って自分も立ち上がる。
「変わんないね。」
「だな。葵は、その大丈夫か。」
「何が?」
きょとんとした顔をするのだが、ぶっきらぼうな自分がそのような顔をすること自体が何とも不思議な感覚である。
ニワトリが空を飛んだと同じぐらいの不思議さだ。
「……いや、その、なんでもない。」
自分の中でも触れたくない痛みだ、もしもそれが彼女に伝わらないならそれでいい。
「それで、このあとは――。」
「あっ!!あおいー!!こんなところで何してるの~。」
突如として声が階段下から聞こえた。ふと声の方へと振り向くとそこには秋によくみられる艶やかな栗のような茶色の子であった。
ぷっくりとした涙袋をしていてぱっちりとした目をしている。それは透き通ったクリスタルのように輝くブラウン色の眼がよく似合う美しい眼の形をしている。
なんといえばいいのだろうか。眉やらに黒い線を書き足してやればもっと美しくなりそうな気がする。比較的高身長の彼女は葵とほぼ同じ背丈で、推察して多分一七〇センチだろう。
後ろでリボンで括られた長髪の黒い髪が背に流れており、癖っけ一つない髪はよりよく手入れされているのであろう。
そしてかなりの痩せ型であり、ちょっとした読者モデルのようにも感じる体格である。なんというか男子人気の高い女子というやつである。
名前は確か青木 雫さんだったか。自分たちと一緒の中学の同級生で、秀才といっていいほどに頭の出来が良い子だ。
進学校にも行けるほどの学力のある彼女には似つかわしくない田舎の学校に入学した。友達関係の方を重要視したとても仲間思いの子だと思う。
そんな彼女は名前を呼ばれても反応を見せない様子に困惑した様子であった。
「あおい~、大丈夫?」
甘い果実のような女子の匂いを漂わせて自身の目の前へと近づくのだが、そうだ今は自分が葵なのだ。というか当の本人は!!
「あっ、しず――。」
「ごめんごめん、ちょっとぼうっとしてて。どうしたん?」
余りの暴挙に出ようとしたバカの口を塞ぎつつ答えるのだ。
「ちょっとトイレットペーパーが無くなってて取りに行くとこ。匠君となんか話してたの、ってなんで口ふさいでいるの?」
「えっ、ああ!!これはその、なんだ、秘密の会話って奴!!だよね。」
まあ入れ替わっているというのは間違いなく秘密にしなければならないことだろう。嘘は言っていない、よな?
彼女を見るのだがわかってるよと言わんばかりに不満げな顔をしている。
だが雫はへえーとニヤニヤと薄気味悪い笑みを見せる。
「やっぱ元陸上部の二人は仲がいいんだねぇ。」
「いやいやいや、そんなことないよ。な?」
だがそんな平穏無事な道は彼女の言葉によって無情にも散る。
「ちょっと葵と話したくてな。だよね?」
愕然と口を開くことしかできなかった、この女は何をトチ狂ったことを言いだすのだ。
その時の心の内は計画を吹き飛ばしてくれた怒りというよりも、彼女が何を考えているのか全く理解できないことに驚きがあった。
そして彼女は小さく耳打ちしてきた。
「――そのまま話を合わせて。」
自分の身体のいる葵は笑みを見せつけるかのように浮かべデレデレとした顔になる。
朝鏡に映る自分の顔を見て気持ち悪いと思ったことはないのだが、この時ばかりは気色悪いと感じてしまった。
女にデレデレする男自体にそういう偏見はないのだが、自分がそんな顔をすることに嫌悪感というのを抱いた。
「その、葵から告白されてな。」
「「えっ!!」」
目線でいやいやダメだろと葵から無茶ぶりが飛んでくるのだが、これを驚かない方が無理だ。
恐る恐る隣にいる雫へと顔を向ければとても興味深そうに、宇宙人を目の前に見つけた科学者のような顔であった。
「へぇぇ、葵が告白したんだぁ~。ねえねえ答えは貰えたの?」
彼に聞こえないように耳を口元へと寄せる。
なんというか、別段そんな想像をしたことがないといえばウソであるが、彼女のことを想像すると沸々とどんな告白をするのか出てきてしまう。
自分の妄想癖には辟易としてしまうが、男として女を欲するのは仕方がないことである。
気恥ずかしさを感じつつも自分が答えそうな言葉を考える。
「……今は考えさせてって。」
「あーなるほどね、らしいっちゃらしいよね。でも匠君って葵のこと避けてたよね、この短時間に何があったの?」
「それは……まあちょっとね。私の魅力ってやつ?」
「もー、はぐらかすなんて葵らしくないじゃん、私との中じゃーん。」
突如として抱き着いてくる雫、ぶわっと甘い女子の匂いが鼻孔をくすぐる。こんなにも女子と密接に接触するのは初めてなもので、心臓がどきどきしてしまう。
柔らかな胸がむにゅっと背中に張り付く、右腕を両手で握られた時なんてドキッとしてしまった。なんというか、女なら接近してくる人全員好きという勘違いをしてしまいそうな自分がそこにいた。
過激気味なスキンシップに慣れていないといえばそうなのだが、男の自分がこんなにもされるなんて想像どころか考えてもいなかった。
ニヤつきそうなのを必死に耐えながらも。
「あ、葵ぃ、助けてくれぇ。」
小さく彼女へと助けを求めるのが、ドギマギしている自分をみて随分と楽しそうな顔をしていた。
「へー、葵と雫は結構仲がいいんだね。いつもそうなの?」
「そうそう、葵とは中学校から一緒なんですよ。匠君は確か小学校からでしたっけ?」
「だね、葵とは小学校より前、幼稚園からずっと一緒だったんだよ。意外だろ?俺が守ってやるって言ってくれたりな。」
「くれたり?」
彼女は失言したことに気づくとごめんごめんと訂正を入れる。
「言ったんだよ、まあ今じゃちと疎遠ではあったけどな。」
「なるほどねー、冷めているようで意外と昔は熱かったんだ。ほえー、意外だなぁ。」
「まあ雫はそうだろうね。」
そう呟く彼女の瞳は揺らめいていた。ゆらゆらと揺らめく瞳は彼女らしくはない、決して弱気なところは隠す性分ではあるがこうして表に出ること自体が珍しかった。
それほどに思うことがあったのだろう。
「まっ!俺は後片付けがあるから先に行くから。葵、放課後に屋上で待ってるからな。」
じゃあな、とまるで男らしさを求めていた昔の自分のように振舞って階段を下りていく。
今の俺はそんなキャラじゃないんだけど、あいつに任せて本当に大丈夫だったのだろうか。
無意識的に頭をぽんぽんと叩いてしまう。どうにも不安に感じるが今は彼女の提案に乗るしかない。
階段を下る自分の身体を二人は見つめていたが、怪訝な顔をした雫がそこにいた。
「……どうしたの雫。」
「えっ、ああうん。ちょっとね。」
思慮を深めていたからか急に声をかけられたことに小さく驚きつつも、少し安堵した顔になっていた。
「しっかし匠君、大分キャラ変わったよね。ほら中学の時のような感じに戻った感じ!わかる?」
「……そうだね。あの時のまんま、だね。」
「そうそう!ほら高校に入ってからずっと陰気気質っていうのかな、あの一件って……、でも、うーん。」
自分の顔を見て歯切れの悪い言葉を出して言うかどうかを悩んでいるようであったが、彼女なりに葵に気を使っているのだろう。
「いいんだよ、もう過ぎたことだし、匠も気にしてないしね。」
「だといいんだけど、私にはそうは見えないけどな~。」
目を細めて言う彼女のブラウンの目はとても物憂げな少女の目そのものであった。
きっと彼女も自分のことを心配してくれているのは理解できる。
だがその憐憫を感じさせる感情が嫌いだ!高給取りの人間が安月給の肉体労働者のような人間を見るかのような目が大っ嫌いだ。
その目を見るだけで沸々と怒りにも似た感情が溢れ出てくるのがわかる。活火山の如くどくどくと溢れ出る感情というマグマは真っ赤に燃えていて、何人たりとも寄せ付けないドス黒い感情でさえあった。
しかしそんな感情に何の価値があるのだ。現に自分は”走れない”人間なのだ。そんな男に何の価値が残っているのだろうか。
既に抜け殻になった男しか残らなかったのだから……。
「そうなんだ、さっ行こうか雫。」
ニコっと笑みを浮かべて先を歩く。
「あっ、ちょっと待ってよー。」
能面を被った笑みは誰にも理解されない、何故こんな無意味な笑みを浮かべるのか自分でさえも分からない。
きっと心を殺してしまったあの時から全てが始まってしまったのだろう。あの忌々しい事件のせいで……。
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