最終話 終わりとはじまり
ナナとココが駅前でおち合った頃には、すっかり日が暮れていた。
あのあと、ココは淳弥と駅まで並んで歩き、カフェで一緒に熱いショコラを飲んだ。
ナナは美術室に渦巻く狂熱を弄られるように味わい、大原という人間の才能だかなんだかに、とても興味を持ったようだった。
ふたりはそれぞれの体験を話し合い、ここに来て本当に良かったと、顔を見合わせて笑った。
バスルームに男の死体を残して家を出たあと、ふたりはまた無人のマンションの一室に入り込み、そこで暮らしている。そろそろお腹が空いてきた。家に獲物を連れ込んで弄りながら喰うのは楽しいが、事件化するリスクがある。そこでふたりは、「外食」することに決めた。
ターミナル駅の噴水前に座っていると、若い男の二人連れが声を掛けてきた。頭の悪そうな男は、きっと肉の味もお粗末なのだろうと無視していると、次に三十歳くらいに見えるサラリーマン風の男がふたり、近づいてくる。
「高校生? 一緒にご飯でもどうかな」
ナナたちは男を上から下まで一瞬で見て、まあ悪くはないと判断した。
『一緒にごはん、ねぇ。あたしたちのごはんは、あんたたちなんだけど』
ナナとココは意識を交わして微笑み合い、チャンスをみて男たちを喰うことにした。
広い公園を抜けたところに、フラメンコをライブで見せるスペイン料理の店があるらしい。制服の高校生だから無理だけど、そこのリンゴの発泡酒はとても美味しいのだと、公園を歩きながら男たちが言う。
店内はそこそこ混んでいて、ステージに近い前列のテーブルはすでにいっぱいだった。ナナたち四人は最後列の壁際の席に案内され、男たちはサングリア、ナナとココはザクロのジュースで乾杯した。
料理が半分ほど運ばれてきたところで、いよいよショーが始まるらしい。客席の照明はさらに落とされ、演者たちが登場したステージは圧倒的な迫力に満ちる。
ギターの演奏、カンテとパルマ。それらが渾然一体となった熱狂的なステージに、ナナもココも高揚した。もう居ても立っても居られない。早くこの男たちの肉を切り裂いて喰いたいという強い欲求は、抑えがたいたものだった。
「オーレ!」「ケ・ビエン!」と客たちが声を掛けるタイミングで、それぞれが隣にいる男の喉に噛みつき、そのまま肉を食いちぎる。シャツの上から心臓に爪を立て、えぐり出して貪った。サングリアのピッチャーが倒れ、赤い液体は彼らの血と混じり合って床は真っ赤な池のようだ。
だが、誰も壁際の席で繰り広げられる惨劇に気づくものなどいない。誰もが熱狂し、ステージに酔い痴れている。
ナナとココはすっかり満足すると、暗い店内をするりと抜け出した。
赤い長椅子に寝そべったナナは、半裸の胸を長い髪で隠していた。大原の「最高傑作」は、あと一息で下絵が出来上がろうとしている。筆を置いて大きく息を吐いたあと、彼はナナに近づきながら言った。
「ナナ、これが完成したら、コンクールに応募したいと思っている」
こうして何度も大原と二人で過ごすうち、ナナの中には恋心のようなものが芽生え始めていた。
「先生、それが入賞したら学校を辞めても、画家としてやっていけるかしら」
ナナが言うと、大原は難しい顔をした。
「いや、これ一つだけではなんとも言えないな。ナナがこれからもずっと、モデルを引き受けてくれるなら、或いは……」
「それは、どういう意味?」
「もちろん、いつも僕のそばにいてほしいってことだよ」
ナナは心臓の高鳴りを感じ、このとき初めて大原への気持ちが愛情なのだと自覚した。大原も自分を求めている。大原のそばにいて、彼の喜ぶ顔を見たいと、そう思った。
「うれしい、先生。ずっとわたしだけを描いてね。裏切らないで」
その直後、ナナの身体に異変が起きた。喉に違和感があり、そこを手で押さえる。「せんせい、」と大原を呼ぼうとしたが、声が出ないのだ。
『人間に恋をした人魚は声を失う』
言い伝えが頭をよぎる。言い伝えが真実だったためしなど、あるはずがないと思っていた。
「声が出ない」と紙に書いて大原に示すと、彼は慌ててナナを病院に連れていくと言った。
どうして急に声が出なくなったのか、ナナは病気なのか、もしもそうだとしたら、今後もモデルを続けることは出来るのか……。
心配する大原の様子を見て、ナナは大原の方が先に自分に恋をしたのだと確信した。どこも痛くはないし、これは決められたことなの。でも、もうココと歌えなくなるのはさみしい。
真紅のベルベットの上に横たわる半裸のナナは、しなやかでほっそりとした長い腕と脚をもち、腰まで伸びた髪で顔の半分を隠している。白い貌にぬらぬらと光る紅いくちびるは、まるで血が滴っているようだ。
ついさきほどまでは線だけだった下絵は、いつの間にか彩色されていた。大原はそれに気づかないのか、カンバスをそっと布で覆うと、ナナの肩を大切そうに抱きかかえ、美術室を出る。そして校舎裏の職員駐車場までナナを連れてゆくと、蒼白になりながらキーを差し込み、アクセルを踏んだ。
助手席に座るナナの手を握り、「大丈夫だから。僕が腕のいい医者に診せてあげるからね」となだめるように言い続ける。オロオロしながらも頼りがいのあるところを見せる大原に、ナナは自分の心が揺れるのを感じた。
──人間の世界には、ただ遊びに来たつもりだったのに、わたしがこんな気持ちになるなんて信じられない。ココが知ったらなんて言うかしら。ココは後藤くんのことが好きなのに、声が出なくはならない。わたしと何が違うんだろう? ココの恋とわたしの恋。わたしの方が、相手が大人だから? このまま海に戻れなくなるのはいや。でも、大原先生と離れたくもないの。わたしは、どうしたらいいの?
窓外の景色は、飛ぶように移り変わる。遠くに流れる冬枯れの木立を見つめながら、ナナはここへ来てからの短く楽しい日々を想う。
しばらく走ると、海沿いの大きな病院に着いた。大原は、保険証を持たないナナを咽喉科の受付に座らせる。待合室の椅子に着くと、大原はとっくに受付けが終了した診察室に入ってゆき、中で医師に直接交渉しているようだ。
待合室は多くの患者で溢れていたが、医師との交渉がうまくいったのか、ナナは三番目に診察を受けることが出来ると、戻ってきた大原に告げられた。
『せんせい、ありがとう』
ポケットからスマホを取り出すと、ナナはそう文字を打って大原に見せた。大原はふたたびナナの手を握り、励ましの言葉を囁きつづける。
どこも痛くはないし、具合が悪いわけでもない。それなのに、先生のこの慌てようったら……。本当にわたしを愛してるのね。考えているうちにナナの番がきた。スピーカーから「魚住ナナさん、二番診察室へどうぞ」という声が聞こえ、ナナは大原と視線を交わしてから立ち上がった。
大原の知り合いらしい女医は、美しいナナを見ると顔を曇らせて小さく溜め息をついたが、彼女はまず、ひんやりした指でナナの頸部に左右から触れ、それから喉の奥を見る。
「症状はいつからですか? 何か喉に刺激のあるものを飲食しましたか? アレルギーはありますか?」
「腕のいい医者」らしく、彼女はナナの不安を取り除くような丁寧でやさしい診察をした。ひと通りのチェックが済んで、精密検査を受けるかどうかと訊ねられたとき、ナナは医師の胸に付いた名札に目を遣った。そこには「大原」とゴシック体で記されている。
『先生の、妹さんですか?』と訊ねると、彼女はてきぱきと電子カルテを記入しながら、「妻よ」と言った。
あぁ、きっと妹なんだ。そんな冗談を言うなんて、先生とはずいぶん性格が違うのね。
うふふ、と華やかな笑顔を見せると、医師は眉を寄せて少し哀しそうな顔をする。
「魚住ナナさん、あなたもしかして彼のモデルになってるの? 芸術の話なんか聞かされてない?」
先生のモデルをしていることを、なぜこの人は心配そうに訊ねるんだろうと、ナナの胸はチクリと痛み、声が出なくなったばかりか、心臓が締め付けられるように苦しくなった。
『モデル、しています。いま描いているわたしの絵をコンクールに出すそうです。この先もずっと、私だけを描くと約束してくれました』
入力した画面を見せると、医師は「あぁ……」と呻き、額に手を当てて目を閉じた。いちど深く呼吸をし、意を決したようにナナの目を見つめると、彼女はきっぱりと言った。
「彼はね、そうやって今までに何人かの女子生徒をモデルにして、懲戒処分を受けてるの。もちろんヘンな意味じゃなく、彼なりに本気で芸術をやりたいんだろうけど、彼にはその才能はないのよ。その気にさせてしまったなら、私からも謝ります。だから、もう離れた方がいい。拘束される時間も長くなって受験勉強さえさせてくれなくなるわ」
──この人は、なにを言ってるの? 先生がわたし以外の女の子を描いてた? うそよ、そんなの。だってわたしは、こんなに先生を好きになってしまったのに。
ナナは、あまりにも衝撃的な大原の妻の言葉に、ふらふらと病院の玄関を出る。
ナナが急変したと淳弥から聞いたココは、急いでタクシーを飛ばしてナナを追いかけ、微かに感じるナナのオーラに頼ってここまで来た。この病院にいると直感したココは、ロビーで所在無げな様子でいる大原を見つけて問い質す。
「ナナに何をしたの?」
同じ顔をしたココが目の前に現れ、大原は一瞬、ナナの喉が治ったのかと喜んだ。しかし、それは激しい怒りを露わにした妹のココだった。
「急に声が出なくなったから、咽喉科医師の妻に診せたんだが、目を離した隙に外に出たようで……」
「妻ですって? そんな!」
――ナナ、なんてばかなの。大原のことなんて、ちょっとからかってるだけだと思ってたのに、本当に好きになってしまったのね。そして、結婚していることを知った……。だめよ、ナナ。わたしが行くまで待ってて!
病院の真っ白い建物は、冬の日差しをあびて眩しかった。空は真っ青で、水平線で区切られた懐かしい海は、黒っぽく輝いている。
防波堤の上を、ナナは歩いていた。その瞳は、はるかな水平線の彼方を見つめているようでもあり、足元で弱々しく砕ける白い波頭を見ているようでもあった。
尋常ではない取り乱し方をしていたココ。そのココを追っていけばナナに辿り着けると思った大原が、先にナナの姿を見つけて走り寄る。
「ナナ!」
大原の声に、ナナはゆっくりと振り向いた。その顔は、涙で濡れてはいたが、とても幸せそうだった。唇だけで「せんせい……」と呟くと、その幸せそうな笑顔のまま、ナナは後ろに倒れていった。
「ナナ、どこにいるの?」
沈みゆくナナの耳に、ココの声が届く。
『ココ、そんなに慌ててどうしたの? わたしはここにいるじゃない』
「だめよ、だめ! ナナ! 戻ってきてよ、お願いだから」
ココの涙声が頭に届く。ふふ、きっとまた、可愛い顔して泣いてるのね。……ナナは目の前に広がる白い泡を見つめてわらう。
防波堤に立ち尽くす大原を見つけると、ココは急いで走り寄った。そして海面に広がる泡を見て「あぁ、」と泣き崩れる。
「魚住さん、ナナさんが海に落ちたんだ! 早く助けなきゃ」
ナナの身に一体なにが起こったのか、あなたには絶対にわからないわ。ココは怒りと憎悪をむき出しにし、鋭い爪を出して大原の喉に突き立てる。口を大きく開け、凶暴な牙で大原の心臓を食いちぎった。手の中でドクドクと脈打つ大原の心臓は、ナナが横たわっていたビロードと同じ色の血にまみれ、ナナを求めて泣いているようにも見える。ココはほんの少しだけ、大原の愛情を信じようと思い、それを海に投げた。
「ナナ、好きな人と一緒だよ」
沈んでゆく大原の心臓から、真っ赤な血が模様を描くように広がってゆく。
ココは、いつかナナと一緒に、海面から顔だけを出して夕焼雲を見たことを思い出した。
『ずっと一緒。ふたりは双子なの。あなたにはわかる? 夕焼けの色は明日の悲しみの色』
どちらからともなく歌いだし、顔を見合わせては微笑んだ。わたしたちはいつも同じで、それは永遠に変わることはない。
ナナ、わたしももう海にかえるね……。
いっそ泡になってしまいたいとココがうずくまった防波堤に、子猫が遊んでいた。抱き上げて小さな顔を見つめたココは、ナナが子猫の姿で戻ってきたような気がして、その柔らかな身体に顔をうずめて「ナナ」と呟く。子猫が小さな舌を出してココの頬を舐める。
愛しいものが手の中にいる喜びは、海の中にいたら知ることはなかった。
ココは立ち上がり、子猫をそっと抱きしめる。顔を上げて歩き出そうとすると、真っ直ぐな道の向こうから、淳弥が走ってくるのが見えた。