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第2話 告白ごっこ

 静かな住宅街は騒然としていた。パトカーと救急車が狭い道路に何台も止められ、現場となった家へと至る道にはイエローテープが張られている。玄関から慌てて出てきた制服警官は、庭に降りるなり芝の上に盛大に吐いた。


「きっと、猫の死骸でも誰かが捨てていったんじゃないかしら。しばらく前から臭うんですよ」


 現場はそこそこ大きな洋館で、もう半年以上誰も住んでいないのだと、隣家の住人である中年女性が保健所に通報したのが午前十時。

 一報を受けて職員が訪問するが、門扉は施錠されており、所有者と連絡を取ろうにも、職員にはその権限がないとのことだった。

 ふと門扉の脇に目を遣ると、繁茂したシルバープリペットの枝の陰に、「貸家」と書かれたブリキの看板が掛けられている。それを見つけた主婦は、ポケットからスマートフォンを取り出すと、ためらわずに通話ボタンを押した。


「ああ、お宅で管理している一戸建ての物件なんですけどね、わたし? 隣に住んでる者ですけど、なんだか変な臭いがするんですよ。そう、動物が腐ったみたいな。ちょっと見にきてくれないかしら」


 住所を告げると、担当者が三十分ほどで到着するということだった。


「お役所の人って、本当に自分では何も決められないのねぇ」


 嫌味とも実感ともとれる微妙なアクセントをつけて、通報した主婦は保健所職員に言った。職員が気まずそうな顔で上司に電話をかけると、不動産屋が来て中を確認するのに立ち会うよう指示されたらしい。門扉の外に立っている彼も、確かに腐敗臭を感じていた。

 これは絶対に動物の死骸があるのだろう、と思いながら彼が庭の方に乗り出すと、臭気はそれまでよりも濃密になったように感じられた。




 翌日の教室では、近隣の空き家で起きた惨殺事件のニュースに誰もが興奮していた。


「犯人は人間かどうかわからないんだって」

「なんかね、動物に襲われたような痕があったらしいよ」

「えーっ! 熊とか? この辺にはいないでしょ」

「だって、鋭い爪でえぐられたとか、噛みつかれたとか、そんな傷だったって誰かがつぶやいてたもん」


 女子たちは、SNSでまことしやかに囁かれる事件の謎について、なにか普通ではないものを感じているらしい。恐怖というよりは、神秘的なものに惹かれているような面持ちだ。 


 何が彼女たちの心に響くのだろうと、ナナとココは自分たちが去ったあとのあの家の状況を思い浮かべ、ただ腐った男がいるだけなのにね、と顔を見合わせては微笑んでいた。


「魚住さんたち、あの近くに住んでるんじゃなかった?」


 現場となった戸建ては、転入してきたときに住所として提出したものだ。今ごろは、その記録はすっかり消えて別の住所が記載されていることだろう。


「ううん、わたしたちまだこの辺の地理はわからないけど、近くで事件があったなんて聞いてないよ」


 ココが不安げに眉を寄せて言うと、淳弥が後ろの方から近づいてきて言った。


「帰りが遅くなるようだったら、俺が送っていくから」


 当初は隣の席だったが、席替えで離れてしまった淳弥は、やはりココのことが気になるらしい。


「えっ、なに後藤! 魚住さんの彼氏に名乗り出たの?」


 何人かの女子が、口を手で覆いながら驚いたように言う。


「バカ、ちげーよ。そんなんじゃねえけど、魚住さんはお前らとは別だろ? なんつーか、生きものとして」


 淳弥の言葉に、ナナとココは心臓を握りつぶされそうな恐怖を感じた。

 ふたりを「生きものとして別」だと言った淳弥は、もしかして気づいているのだろうか。ナナとココ。ふたりが人間ではないということに。



 その日の帰り、何人かの女子がナナとココを囲むようにして、駅までの道を一緒に歩いた。


「寒いね」

「うん、さむーい!」


 寒いことの何がそんなにおかしいのか、少女たちはそれだけで楽しそうに笑っていた。


「ねえ、美穂、もう決めた?」

「ううん、まだ」


 何のことを話しているのかわからない双子は、不思議そうにクラスメイトの顔を見つめる。


「魚住さんたちは転校してきたばっかりだけど、どうなのかな? チョコレート渡す相手はいるの?」

「クラスの男子なんてメじゃないんじゃない? 釣り合うヤツなんていないじゃん」

「あっはは、確かに」

「なんの話?」


 焦れたココが思わず訊ねた。「男子・チョコレート」この子たちは何をいってるんだろう。


「やだ、バレンタインだよ~。きゃあ~」


 脇坂めぐみが両手で顔を覆い、わざとらしく恥じらってみせる。めぐみの話では、二月十四日には女性から好きな男性にチョコレートを贈り、愛の告白をする習慣……というよりは商業的な行事があるそうだ。

 女性同士で贈り合うこともあれば、その時季しかない豪華なものを自分のために買う女性も多いらしい。

 そして誰が誰にチョコレートを贈るかは、学校では誰もが興味津々なのだ。


「あなたたちは、チョコレートを渡す相手がいるの?」

 

 ココが訊ねると、美穂もめぐみも恥ずかしそうに頷いた。せっかく周囲からは人間だと思われているのだ。人間の習慣に参加して、楽しんでみるのもいいかもしれないと、ナナと顔を見合わせる。


「わたしは、そうね……、美術の大原先生なんかいいな、と思う」

「わぁ、魚住さん、ていうかナナちゃん、まだ美術は一回しか授業受けてないのに、なんで大原がいいと思ったの?」

「なんとなく、かな。あの人の瞳には哀しみがあると思うの」


 ナナの答えを聞いた美穂たちは、それに対して何も言うことが出来ず、尻込みするように黙ってしまった。


「あ、じゃあ、魚住さん、ていうかココちゃんは?」

「ココちゃんは後藤だよね?」 


 めぐみが探るような瞳でココの顔をのぞき込む。ココはその時、初めての感覚を知った。心臓をきゅっと掴まれたような、痛いようなくすぐったいような、それでいて胸に広がるのは、チョコレートソースのように甘くなめらかで、ちょっと切なく苦しい感覚。


「後藤……くん?」


 さっきまでまったく意識していなかったというのに、淳弥の名前を自分の声で聴くことに、明らかに動揺している。ココは自分に起こったことに心底おどろき、また、畏怖を感じてもいた。


「ココ、後藤くんはあたしたちが転校してきた日から優しかったじゃない。後藤くんにあげなよ、チョコレート」

「ナナは? 大原先生にあげるの? ココにはくれないの?」


 唇を尖らせて不満を言うココの思いがけなく幼い様子に、一緒に歩いていた美穂たちは溜め息をついた。


「美人って、どんな表情になっても美人なんだよねぇ」


 嫉妬というより、別世界のものに対するような感想を述べられ、ナナとココは内心で焦りを感じた。同級生からそんなことを言われるようではダメだ。すっかり周囲の人間に溶け込むようでなければ、せっかく辿り着いたこの楽しい場所に長くいることなどできはしない。

 だが、巨大なしっぽを隠す以外、他の個所の見た目を変えることは、自分では不可能なのだ。


「大丈夫。ちゃんとココにもあげるから。だからココも、あたしにちょうだいね」


 ナナがなだめるような言い方をすると、ココはほどけた笑顔を見せた。

 わざわざ声に出さなくとも、想うだけで互いには通じるのだが、美穂やめぐみの手前、視線を交わすだけでは不自然だと、ふたりはあえて高校生らしく振舞っていた。




 二月十四日。放課後の美術室でナナは大原と向き合っていた。


「2Dの、魚住……さん? 忘れ物かな?」


 眼鏡の奥で、大原はやさしげな瞳を曖昧に曇らせた。今日が何の日か知らないはずはない。女子は一ヶ月も前から騒いでいるし、男子はチョコレートをもらえるかどうかで一日中緊張を強いられる日なのだ。

 転入してきたばかりの美しい少女が、自分たち以外には誰もいない教室に、小さな包みを持って立っている。それがどういうことか、大原は教育に携わる立場を忘れ、芸術家としての血が自身の内にふつふつと蘇ってくるのを自覚していた。


 こんな感覚は何年ぶりだろう。芸大を出たあと、画家として生きてゆきたいと望んだ。海外に渡り、路上で絵を売った日々もあった。

 だが、現実は厳しく冷たく大原を突き放し、才能やチャンスや運、それらが何一つとして自分には味方をしてくれなかったと、悲嘆にくれる日々が続いた。失意のまま帰国した大原は、高校の美術教師という、自分にとってはなんの魅力も感じない職場に落ち着くしかなかった。

 以降八年の間、こんなふうに魂を揺さぶられるほどの感動と創作意欲を感じたことは、ついぞなかったのだ。


「先生、わたし、告白というよりは挑んでみたいんです。その対象は、きっと先生ではなくて、先生の後ろにあるものだと思います。先生の瞳の奥にある鏡を覗いてみたい」


 高校生の口から、こんな言葉が出たことに大原は戦慄した。

 彼女こそが、この魚住ナナこそが、長年自分が探していたアフロディーテ、ヴィーナスであると確信した彼は、自分の職業や立場をも一瞬で忘れ、その場でナナを強く抱きしめた。


「ありがとう、魚住さん。きみと出会えて、僕の芸術家としての血が一気に沸騰し始めた。僕は忘れかけていたんだ。自分には才能がないと思い込んでいた。だが、それは違う。きみを目の前にして、僕は僕の才能をこのまま葬ってはいけないと目覚めたよ。今日から早速きみを描きたい」


 言いながら、大原は一秒でも惜しいというようにカンバスの準備をし、ナナをその正面の椅子に座らせた。


 ナナは楽しくて仕方がなかった。こんな経験は、海の底にいたら決して味わうことなどなかっただろう。大きな木の椅子に腰かけていたナナは、大原の興奮した声に呼応するように、椅子の上で身体を弓なりにのけぞらせ、しなやかな腕を遠くに伸ばす。そして顔を覆う長い髪の隙間から、青みがかった瞳で彼をじっと見つめた。




 テニス部の練習が終わるまで体育館の脇で立っている少女たち、そのほとんどは後藤淳弥が出てくるのを待っている。

 底冷えのするような二月の夕暮れ時だ。ミニスカートから出した脚を紫色に染めて、彼女たちは目当ての男子にチョコレートを渡す瞬間を想像しながら、胸を高鳴らせているのだ。


 やっと練習が終わり、テニス部の男子がぞろぞろと出てきた。引退した三年生も何人かは練習に参加していて、中には彼らを待つ女子もいた。


 淳弥は四月からの新年度、キャプテンとしてこの湘洋学園のテニス部をけん引してゆく立場にあり、その決意がみなぎった顔は、精悍に引き締まっていた。


「あっ、出てきたよ、後藤くん」


 一年と二年、三年の女子までもが淳弥を囲むように小走りに進む。その後ろで、ココはナナが大原に渡したものとお揃いの包みを持って立ち、じっと淳弥を見つめていた。


 ココの視線に気づいた淳弥は、他の女子など目に入らないような態度で、ココに引き寄せられてゆく。体育館脇の冬枯れの桜の下で、ココと淳弥は見つめあった。

 他の者は、潮が引くようにその場から去っていき、ほのかな夕焼けに照らされたふたりは、手を取り合って頬を染めた。

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