第1話 美しき転入生
目の前で、自分の長い髪が揺らいでいた。ゆるくウエーブのかかった明るい色の髪は、ゆらりと揺れては視界を遮り、かと思うと、その隙間から頭上にきらめく光をチラチラと見せたりもする。
そこに目を凝らすと、細かなゴミなのか生物なのか、光を受けて儚く輝きながら漂うものが無数にあった。
ナナはその輝くものに触れようと懸命に手を伸ばすが、どうしてかナナの指先は白いメレンゲのようにふわふわと頼りなく、揺れる水に溶けるように消えた。
ナナは自分の手を顔の前に寄せ、指先をじっと眺める。さっきまで確かに存在していた、すらりと長かったナナの指は、第二関節の辺りから先が溶けて泡になると、絶えず揺れている水と一緒に流されていった。
「ナナ! ナナ! どこにいるの? 返事をして!」
遠くから、ココの声が聞こえる。必死にナナを呼んでいるようだ。
――ココったら、なにをそんなに慌ててるの? わたしはここにいるのに。
ゆっくりと沈みながら、ナナは微笑む。次第に明度を落としてゆく水の中で、ナナは満足していた。
――だって、わたしは愛を知ることが出来たもの。誰かを好きになるって、その人に愛されるって、こんなにすてきなことだったのね。だから、わたしは後悔していない。本当よ、ココ。わたしはしあわせ……。
ナナはゆっくりと目を閉じた。太陽の光も届かない深さまで沈みながら、身体がどんどん軽くなるのを感じている。やがて、柔らかな藻に覆い尽くされた水底に辿り着いたころ、ナナが着ていた制服はその中身を完全に失くしていた。
湘洋学園高校二年D組の生徒たちは、時期外れの転入生に騒然となった。それというのもその転入生は双子の女の子で、クラス編成の都合で二人ともが同じD組に編入されたからだ。
「魚住ナナです」
「同じくココです」
担任の中沢から、転校生が来るということは昨日のうちに知らされていたが、双子の女子だとは誰も思わず、それもこんなに美しい少女だったということに、全員がにわかには受け入れがたい不思議な感覚にとらわれ、クラス中がそわそわしていた。
「魚住さん、よろしくね。私は竹下美穂」
ナナの隣の女子が、軽く頭を下げながら笑顔を見せる。
「あ、後藤……っす」
ココのとなりは後藤淳弥という男子で、彼はテニス部の副キャプテンだ。
転校初日はそれぞれが最後列の空いている席に着いたが、週末のロングホームルームの時間に改めて席替えをすることになった。
朝のホームルームを経て一時間目の授業が終わると、女子たちはナナとココの机に殺到した。
「新学期でもない時に転校なんて、親の転勤か何か?」
「ふたりともすっごく綺麗だけど、ハーフ?」
「部活に入る予定ある?」
「シャンプーなに使ってるの?」
突然の質問責めに、ナナとココは目を丸くして驚いた。二人に話しかけたい男子たちは遠巻きにその光景を眺め、次の休み時間には女子たちを払いのけてでも自分を印象付けようと思っていた。
ココはそれでも隣の席の淳弥が気になるらしく、淳弥の机との間に壁のように立ち塞がる女子の身体の隙間から、チラリと彼の姿を盗み見る。ちょうどそのとき、淳弥もココの方に顔を向けていて、ふたりは目が合ってしまった気まずさに慌てて顔を背けるが、ふたりとも頬を赤らめていたことに、ナナだけは気づいていた。
「ココ、後藤くんてかっこいいね。もしかして一目惚れ?」
帰り道、濃紺のコートを着てパステルカラーのスヌードを巻いたナナが、横からココの顔をのぞき込んで訊いた。
「そんなこと……。あるわけないでしょう」
俯きながらそっぽを向いて応えるココを可愛いと思い、ナナはふふ、と笑う。
「でも、わたしたちは来たかった場所にやっと来た。わたしはしばらくここで楽しむつもり。ココだってそうでしょう?」
解放感を味わうように大きく息を吸い込んだあと、ナナはココに確認する。
「……うん、それはそうなんだけど、このままあの人たちの家に住んでても大丈夫かな」
曖昧な返事をしながら、ココは困ったような顔をしている。
「大丈夫じゃなくなったら、また別の場所に移ればいいよ。住むところなんてどこだって」
強い風が正面から吹き付け、ふたりはキャッと声をあげて首をすくめる。そして顔を見合わせると、心から楽しそうに笑いだした。
花が開くように、美しい少女が笑っている。彼女たちの周りだけがぱあっと明るくなり、すれ違う者は不思議な感覚で満たされた。それは憧れなのか焦りなのか、畏怖なのか嫌悪なのか、感じた者にもその正体を見極めることはできなかった。
ただふたりの笑顔に、その姿に見惚れながら、何か得体のしれないものに取り込まれ、自身を失う予感に背筋を凍らせては足早に通りすぎる。そしてすれ違ってから振り向いて、遠ざかってゆくふたりの後ろ姿を見つめる。彼らはみな、声を掛けてみたかった、彼女たちの歌う声を聴いてみたかったと、ぼんやりと思うのだった。
ドアを開けると、玄関ホールは今朝出かけた時のまま、明かりが点けっぱなしになっていた。
食事は昨日したばかりなので、まだあと数日は何も摂らなくても問題ない。お腹が空いたと感じるのは、一週間に一度くらいだ。
「ずっと足で立ってたから疲れたね。そろそろ濡らしてあげなくちゃ」
ナナがバスルームのドアを開けながら、ココに声をかける。その途端、むっとする臭気がふたりの鼻をかすめたが、ナナは気にする様子もなく服を脱ぎ始める。
コートは玄関を入ったところで脱ぎ、スヌードと一緒にフックに掛けた。
湘洋学園高等学校の女子の制服は、濃紺のウールジャケットと白いブラウス、そしてチェックのプリーツスカートだ。ふたりはこの制服をとても気に入っていた。
とくにナナは、ウエストをキュッと絞ったジャケットのデザインが大人っぽくてクラシカルで素敵だと思っている。
そのジャケットを脱ぎ、スカートを取り、ブラウスのボタンを外す。白いショーツに白いシャツ姿のココは、ブラウスの前をそっとひらきながら、自分の首筋からデコルテの当たりを観察した。
──昨夜はちょっと手こずったわね。あなたたちが抵抗したから、わたしの肌にこんなに醜い痕がついてしまったわ。
すっかり全裸になると、ふたりは向き合って互いの全身をじっと見つめた。
臍のすぐ下から、本来の自分たちとは違う造りに変化している。
白くなだらかな腹部に続いてつるりとした恥丘が広がり、その下にはただただ白くなめらかな皮膚が壁紙のように貼りついている。
性別を示すはずの性器が、ナナとココの身体には見当たらなかった。塩化ビニールでできた人形のような股間は、生きて動いている彼女たちの身体の中心で、逆に艶めかしく猥褻だ。
脚を上げても広げても、そこにはただ白い皮膚があるだけだというのに。
「バスタブに水をためて入ろうかな。ねぇ、狭いけどナナも一緒に入って歌わない?」
ココがナナに笑顔を向ける。ふたりはじゃれ合いながらバスルームに足を入れる。
すでに黒く固まりはじめた血だまりはまるでチョコレートのようだ。だが、どんよりと乾きはじめた表面を踏みつけると、その下にはひどい悪臭を放ち、どろりと粘度の高い生乾きの血液がある。すでに汚物と化したその血液を爪先で掬う。
盛り上がった肋骨からは、半分だけになった心臓が零れそうにひっかかっている。それを見つけて手に取ったナナは、まるで甘酸っぱく熟した林檎を掲げるようにして、楽しそうに笑った。
バスタブの縁をまたいで中に入る。足指の先に水が触れると、その白く細い脚の皮膚が醜く変色した。
それは青なのか銀色なのか、あるいは緑がかっているようにも見えた。バスルームの明かりを反射して光るそれには、ギターピックほどの大きさのうろこがびっしりと生え、尾びれの先からは小さな宝石のような骨の先が突出している。
「あぁ、気持ちいい」
ふたりでバスタブの縁に頬を載せ、冷たい水の中で巨大な魚のような尾を伸ばす。
やがて、ナナとココはどちらからともなく歌いはじめる。
狭いバスルームにふたりの歌声が反響し、洗い場の床に転がったまま、虚ろに開いた瞳を濁らせた男たちの顔は、あれだけの恐怖を味わったというのに、一瞬安らいだように見えた。
だが、くりぬかれた心臓をふたりに喰われた彼らが、生きているはずはないのだ。屍体から立ち上る生臭い血肉の匂いも、ふたりには嫌悪するほどのものではない。生き物が死んで腐れば、多少の違いはあれど、みな同じ匂いを発するものなのだから。
「あたしたちは、こんなふうにはならないもの」
彼らを見下ろしながら、ナナが歌う。
「あたしたちは、死んでも肉を腐らせたりしない」
手のひらに掬った水を男の髪にかけながら、ココが歌う。
ふたりは歌いながら顔を見合わせ、どちらからともなく指を絡ませ合う。そして良く似た美しい顔を寄せ合い、ばら色の唇をそっと触れ合わせた。