眠り姫は髪結師と結ばれたい
「ねえ、髪結師さん?今日はどんな髪型にしてくださるの?」
レティシアは胸を高鳴らせ、頬を染めてその青年を振り返った。
「今日は全体を軽く巻いてから、耳上の髪は編んでまとめてみようかと思います」
「まあ!うれしいわ!私が巻いてみたいと言ったから、考えてくださったの?」
とびきりの笑顔を見せても、彼は一歩引いた態度を崩さない。
「貴女の髪でできるかどうかは、試してみないとわかりませんが、できると思います。熱を加えて巻きますので、あまり動かないでくださいね」
「わかったわ。じっとしています」
レティシアは少しがっかりして彼に背を向け、きちんと椅子に座り直した。
* * *
「お嬢様、お嬢様、起きてください」
「ん……」
レティシアは薄らと瞼を開け、また閉じる。
「お嬢様、そろそろ起きないと、夜に差し支えます」
「アンヌ、もう少し……」
侍女のアンヌはため息をつき、レティシアの耳元に囁いた。
「あの方が来ましたよ」
レティシアは覚醒した。
「起きるわ」
「冗談です。では、読書はやめて、眠気覚ましに庭にでも出ましょうか」
レティシアは頬を膨らませてアンヌを見る。
「騙したわね。ひどいわ」
「寝起きの悪いお嬢様を起こす手段として最適でしたので。うかうかしていると夕刻になってしまいますから」
はちみつ色の髪、抜けるように白い肌に、神秘的な紫水晶の瞳。名画の美女も裸足で逃げ出す美貌の持ち主であるレティシアだが、本人はそれをまるで意識しない。
どこででもすぐに眠ってしまう彼女を、父親の公爵が眠り姫と呼んだのはいつの頃からか。それ以降公爵家ではその異名が定着してしまうほど、レティシアはよく眠った。
食事の途中で眠り、マナーのレッスン時に眠り、かくれんぼの最中に眠った時は屋敷中大騒ぎになった。
今でこそ食事の途中で寝ることはなくなったが、気がつくと様々な場所で眠ってしまう。眠り姫の異名が消えることはなかった。
レティシアはほうっとため息をついた。彼女の髪を整えながら、アンヌが尋ねる。
「どうかしましたか、お嬢様?」
「素敵だったわ」
「何がですか?」
「彼よ。髪結師さん。夢に出てきてくださったの」
「…… 」
「彼はなぜ、お名前を教えてくださらないのかしら。身分は、どうなのかしら……」
「……私からは、なんとも。お嬢様がなぜ、髪を結っている間に眠らないのかについては本当に不思議ですが」
「でも、立ち居振る舞いは優雅で洗練されているわ。もしかしたら、貴族の方なのかも。そうしたら……」
「お嬢様」
「……わかっているわ」
レティシアは唇を尖らせ、肩をすくめた。
どんなに恋焦がれても、彼と結ばれることはない。
レティシアには婚約者がいる。
この国の第三王子、カミーユ・イヴェール殿下だ。彼とは半年前に、政略結婚が決まった。
少々変わり者なことで有名な第三王子は、あまり表に出てくることはなく、何か研究をしているらしい。しかしそれは貴族なら誰でも知っていることだ。
レティシアは彼のことを何も知らない。
「婚約者になったというのに、まだ一度もお会いしていないのよ。お手紙を書いてもそっけなくて、お返事には気候と体調のことばかり。お茶会にお誘いしても、断られてしまうし……私、このまま顔も知らない人と結婚しなければいけないの?」
レティシアの切なく寄せられた眉を見て、アンヌは気まずげに目を逸らした。
* * *
レティシアが髪結師を名乗る彼と出会ったのは、半年ほど前のこと。
それまで、レティシアには悩みがあった。
彼女の髪は結うことが難しいのだ。結ってもすぐに取れてしまうので、まとめ髪で出かけることができない。おかげでいつも同じ、すとんと下ろしてあるだけの髪型だった。
お茶会などで周りを見ると、編み込まれて結い上げていたり、巻き髪にしていたりとお洒落な御令嬢がたくさんいる中で、レティシアだけが取り残されているようで寂しかった。
そこでレティシアは、公爵である父に泣きついた。どうか髪結の専門家を手配して欲しいと。
父は溺愛する娘の頼みを聞き入れてくれたが、なかなか見つからないのか、時間がかかっていた。レティシアの悩みは深くなるばかりだった。
そこへようやく現れたのが、彼だったのだ。
その日、レティシアは自室のソファで刺繍をしていた。婚約者に贈るためのハンカチだ。
しかしどうやら、途中で寝てしまったようだった。
気がつくと、レティシアの目の前には知らない男性がいた。艶やかな金髪に、宝石のような碧の目。
そう、目の色がわかるほど近くに。
不思議と、それほど驚かなかった。
彼がレティシアの刺繍道具を手にしていたからかも知れない。刺繍の途中で寝てしまったから、怪我をしないように取り上げてくれたのだろうと、寝起きのぼんやりした頭でレティシアは思った。
ソファの横にしゃがみこんでいた男性は、慌てて後ろに下がろうとして、尻餅をついた。
「大丈夫?それから、あなたは誰?」
「わ、私は、かみゅ、い……」
レティシアはそこで、ハッと気がついた。
うれしさのあまり男性にずいっと近づく。
「あなた、髪結の専門家の方ね!ああ、ずっと待っていたのよ!やっと私の髪を結ってくださる方がいらしたのね!」
「は……」
「私の髪はね、サラサラしすぎて、結いにくいし、すぐに解けてしまうし、それに癖がつきにくくて困っているの。私も、髪を巻いたり、可愛くしてみたいのよ」
しゅんと眉を下げ、レティシアは自身の髪を一房持ち上げる。それはすぐに、砂のようにサラサラと手から零れ落ちてしまった。
「うちにいる侍女には全員に試してみてもらったのだけど、だめだったわ。だから、私の髪を結ってくださる方を連れてきてって、お父様にお願いしていたの」
「そ……」
「早速、お願いしてもいいかしら」
レティシアが興奮のままに捲し立てると、彼は瞬きの仕方を忘れてしまったかのように目を見開いていた。そしてたっぷり時間をかけて、レティシアの言葉の意味を理解したようだった。
彼は何故かドアの方を見た後、レティシアに向き直ると、ぎくしゃくと頷いた。
「……はい」
「どうしたらいいかしら?あっちの椅子に座りましょうか?」
「そ……うですね、椅子に」
レティシアはわくわくしながら、背もたれの低い椅子に座った。遅れて、青年が後ろに立つ。
「では……失礼します」
少し掠れた声が、頭の上の方から降ってきた。
髪を触られるというのは、こんなに緊張するものだったかしら。
レティシアは今更ながら、男女の違いについて考え始めた。今まで髪を結ってもらった侍女の誰とも違う。背の高さだろうか。それとも、手の大きさだろうか。
髪に触れられて、恥ずかしい気持ちになったのは初めてだった。
「確かに、サラサラでまとめにくいですね」
低すぎない、甘さのあるテノールの声。
先ほどよりはっきりとした声は、耳をくすぐってから胸に直接響いたかのように、レティシアの心臓がどきりと鳴った。
「でも、あれがあれば……うーん、とりあえず、今日は……」
後ろで何やら言っているが、レティシアの耳には入らない。
彼の指が、耳や、襟足を掠める度に鼓動の音がうるさくなって、何も聞こえなかった。
「できましたよ。簡単なアレンジですが」
レティシアがどきどきしている間に、終わっていたらしい。慌てて笑顔を浮かべた。
「ありがとう。どんな風になったのかしら」
「両耳の上の髪だけ編み込んで、後ろで合わせて結んだだけです。今日は、リボンが一つしかなかったので」
「すごいわ!私の髪を編み込める人がいるなんて!」
「いえ、ちょっとした工夫が必要ですが、きっと誰でもできます」
「そんなことないわよ。鏡を……アンヌ、そこにいる?」
レティシアがアンヌを呼ぶと、ドアの前で待機していたようで、すぐに来てくれた。
「鏡ですね、どうぞ」
手鏡を手にしたレティシアは感激した。
いつも顔の横に垂れ下がっているだけの髪が、今は何やら可愛く編み込まれ、耳の上がすっきりしている。
「素敵だわ!」
レティシアは、急ぎ足でドアに向かおうとしている青年に駆け寄った。
「髪結師さん、本当にありがとう!素晴らしいわ!」
彼はギョッとした顔で振り返った。
「かみゆいし……?」
「髪を結うお仕事だから、そのような呼び方かと思ったの。また、来てくださる?」
レティシアの顔を見ると、彼はじわじわと顔を赤くして目を逸らす。
「……それは……」
チラリとドアの外を見て、そしてもう一度レティシアを見ると、彼は掠れた声で言った。
「……はい」
レティシアは花が咲くように笑った。
それから月に一度、場合によっては二度ほど、家に彼が来るようになった。
事前にお茶会の予定を伝えると必ず来てくれて、魔法のように素敵な髪型にしてくれる彼に、レティシアが恋を自覚するのは早かった。
それまでずっと髪は下ろしたままだった彼女が髪型を変えるようになると、友人たちは口々に褒めてくれた。レティシアは有頂天になった。
私の髪結師はすごいのよ!と言って回りたいくらいだった。
* * *
「髪結師?」
「そういう方がいらっしゃるのね」
「そうなの。実はね」
ある日のお茶会で、レティシアはついに、仲の良い友人に秘密を明かした。
「まあ、それで、最近レティシア様の髪が素敵になったのね!今日も、まるでティアラをつけているようだし、耳の辺りの少しカールした髪もかわいらしいわ」
「本当に!私もお願いしたいわ。可愛くなって、婚約者にお見せしたら褒めてくださるかしら」
レティシアは戸惑った。
彼が、誰か他の女性の髪を結う。
嫌だ、と思った。
「ごめんなさい、なんだか急に目眩がして……ちょっと、失礼するわね」
レティシアは席を外し、庭園の隅の木に手をついて、心を落ち着けようとした。
彼が他の女性の髪を結うなんて、触れるなんて、耐えられないと思った。そんなの、レティシアの心臓が潰れてしまう。
けれど、それが彼の仕事だ。今までレティシアが思い至らなかっただけで、自分が彼の特別だと思い込んでいただけで、髪結の仕事とはそういうものだろう。レティシアは何度も自分に言い聞かせた。
そして思った。こんな気持ちを抱えたままでは、婚約者と結婚なんてできない。
レティシアは覚悟を決めた。
* * *
「ねえ、髪結師さん」
「はい」
「貴方は、他の方の髪も結うの?」
「は……?」
彼は髪を梳かしていた手を止めた。
ずっとそのことを考えていたせいで、レティシアはつい余計なことを聞いてしまった。
「ごめんなさい、お仕事ですものね、そういうこともあるわよね……」
「……えー、あー、そ、うですね……」
これから言うべきことを考えると、レティシアの視界が滲んでいく。
「あのね、私、私は……」
大きく息を吸い込んで、レティシアは勢いよく振り返った。
驚いた彼が、慌てて手に持った櫛をポケットにしまう。間違ってレティシアに当てないようにだろう。
そんな優しさが、レティシアの胸を締め付ける。
レティシアは立ち上がり、碧の瞳を見つめた。
「私は、あなたをお慕いしています」
彼は目を見開いた。
宝石のような大きな目が溢れ落ちそうだ。
「ですが、私は第三王子殿下の婚約者です……なので」
目の前の青年は、何かに耐えるようにぎゅっと手を握り、口を開きかけた。
「私を連れて逃げてください!」
彼はそのまま、ポカンと口を開けた。
つい、素直すぎる気持ちが出てしまい、レティシアはすぐに訂正する。
「と、言えたらいいのですけど……公爵家の娘として、そんなことはできませんし、あなたにそんな気はないことは、わかっています。ですから……ですから……」
レティシアは笑顔を作ったつもりだった。とびきりの笑顔で、最後にせめて、可愛いと思われたくて。
「きっぱりと振っていただけませんか? 今日で、髪を結ってもらうのも最後にします。とてもお世話になっていたのに、急にごめんなさい」
目の端から零れ落ちた涙は見なかったことにして欲しい。レティシアが願った、そのとき。
涙は、彼のシャツに吸い込まれた。
「泣かないで。レティシア。ごめん、僕が意気地なしで」
腕の中は暖かかった。涙がもう一粒、溢れて吸い込まれていく。
「ごめん。僕がカミーユなんだ。君の、婚約者の」
レティシアの思考は一旦停止した。
「黙っていてごめん。本当に。君の気持ち、すごく嬉しい」
彼の鼓動が聞こえる。ドクドクと激しいその音を聞いて、レティシアは我に返った。
彼が、婚約者。
レティシアは彼を、カミーユを見上げた。
真っ赤な顔でレティシアを見ている。と思ったら、突然その目が泳ぎ出した。
今まで、最初の日以降、一切顔色を変えることのなかった彼が、照れている。
「カミーユ、殿下……?あなたが……」
「は、はい」
「では……私は、あなたに振られる必要はないの?」
「振るなんて、無理だ」
カミーユはきっぱりと言った。
しっかりと目を合わせ、少し顔にかかったレティシアの髪を、優しく後ろに流して。
「レティシア。貴女が好きです。許されるなら、ずっと一緒にいさせて欲しい」
レティシアは、胸の中がみるみる幸せな気持ちで満たされていくのを感じた。
彼も、自分を好きでいてくれた。目の前がきらきらと輝いていく。
そのままふわふわ浮き上がりそうになって、レティシアはすんでのところで踏みとどまった。
言っておかなければいけないことがある。敢えてキリッとした顔を作り、レティシアは言った。
「許すのには、条件があります」
「は、はい」
カミーユはごくりと喉を鳴らし、背筋を伸ばした。
「ずっと、私の髪を結ってくださる?」
「もちろん!」
「それと……他の女性の髪は、触らないでください」
一瞬目を丸くしたカミーユは、すぐに蕩けるような笑みを浮かべた。
「はい」
「あと、もうひとつ」
カミーユは顔を強張らせた。
「私、あなたのことをほとんど知らないの。優しくて、なかなか嫌と言えないことと、髪を結うのが上手なことと、指が細くて長いことと、声が素敵なことと、顔が素敵なことと、あと……」
カミーユは顔を覆った。
「もう、勘弁して……それで……?」
レティシアはカミーユを見つめて言った。
「つまりね、あなたことをもっと知りたいの。だから、お手紙もちゃんと書いて欲しいし、ちゃんとお茶会もしたいわ」
真っ赤に染まった顔で、カミーユは少し困ったように笑った。
「もちろん。たくさん話そう。手紙ももっと色々書くよ。書きたいことはたくさんあるんだ。今まで、本当にごめん。……それで、許してくれる?」
「はい。それなら、許してさしあげます」
レティシアは、花が咲くように笑った。
ドアの外からは、盛大なため息が聞こえた。
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