77話
――レーデンハイト三番街、東部エデル炭鉱。
金網のフェンスによって一般の通行は遮断された地帯。
豊富な石炭を蓄えた採掘場で、五十年ほど取り続けても枯れることなく恩恵を齎し続けている。
「……確かに、エーテルが濃い」
同じ三番街でも、居住区と比べると明らかにエーテル値は高いだろう。
まだフェンスの外側にいるというのに、ヒリついたエーテルの感覚が常に離れない。
エデル炭鉱は東部・西部の二ヶ所に分かれている。
西部は未だに現役だが、クロガネが今いる近辺はエーテル値が高まったことで二年前に放棄されたという。
大地は枯れ、荒れ果てた赤褐色の地面が続いている。
その中に異質な存在が紛れ込んでいることを『探知』によって把握していた。
遠くを見据えれば、体を引き摺るように、黒い液状の"何か"が這いずっている。
歪な形の胴体から二本の腕を伸ばして、何をするわけでもなく徘徊している。
――魔物。
これまで居住区での仕事を主としてきたため、こうして自然発生したものを見る機会は少なかった。
機動試験で対峙した検体は人間が変異したものだった。
それと比べると、近辺を彷徨う魔物はあまりにも異質で気味が悪い。
「あれは『怨廻』です。負の感情を司る魔物……無から発生する類いの中では弱い部類ですね」
クロガネ様の手を煩わせるほどの敵ではありません……と、屍姫が言う。
反応からして、災害等級も咎人級程度だろう。
魔物には二種類存在する。
一つは悪食鬼のように、一定以上のエーテル汚染を受けて生き物が変異したものだ。
エーテル公害の酷い地域は魔法省によって閉鎖されるため、唐突な災害に見舞われない限り人間に被害は無い。
だが害獣などを全て駆除することは難しいため、汚染地域内ではどうしても変異した魔物のコミュニティーが形成されてしまうケースが多い。
二つ目が、今回の怨廻のような自然発生型の魔物だ。
何らかの生命を歪に模した不定形の魔物が大半で、動きも緩慢なため討伐自体に手こずるようなことは少ない。
「うー、でも気持ち悪いなぁ」
色差魔は露骨に嫌そうな顔をしていた。
基本的に素手での戦闘を主とするためか、直接触れるのはさすがに不快に感じるらしい。
エーテル値の高い場所を徘徊する習性があるらしく、今のところは居住区まで降りて来ないようだった。
とはいえ、東部エデル炭鉱の異変を放置しているといずれ溢れ出してしまう。
幸いにも強敵の反応は無い。
目的地付近は魔法省による厳重な警備が予想されるが、少なくとも今は安全だ。
「あれが魔物ですか……」
フェンスに手を掛けながら、真兎が遠くで蠢いている怨廻を見つめる。
下級の魔物とはいえ、生身の人間が対峙すれば命の危険があるような存在だ。
「戦ってみる?」
「いやいやいや! む、無理です!」
慌てた様子で首を振る。
魔物どころか、生き物を殺める経験すら一度もないのだ。
いきなり魔物を倒せと言われて、一歩踏み出すには勇気が足りていない。
「それ、試してみた方がいいんじゃない?」
クロガネは真兎が腰に携えている対魔武器を指差す。
使用感に慣れておかなければ、魔法省と交戦する際に動きづらいはずだ。
「裏懺悔の到着まで時間がある。それまでに……自分の身くらいは守れるようにしておいて」
下手を打って人質にでもされたら厄介だろう。
もし相手側に再びユーガスマ・ヒガが現れるならば、震えているだけの素人を連れ回している余裕はない。
同行自体は真兎の意思だ。
最低限、戦力としてカウントできる状態にはしておきたかった。
色差魔は普段通り手ぶらでの参加だが、彼女の『色錯世界』は確実に役立つだろう。
場合によっては対ユーガスマの切り札になり得る。
そして、屍姫は――。
「必ず、クロガネ様のお役に立ってみせます」
自信に満ちた笑みを浮かべる。
彼女は黒い外套を着込んだ二体のアンデッドを引き連れていた。
片方は三メートルはあろうかという体躯を誇る人型の魔物――曰く"ルーク"の称号を与えた駒。
鉄骨さえ捩じ切りそうなほどの膂力を期待できる。
もう片方は真兎よりも背丈の低い少女――曰く"ビショップ"の称号を与えた駒。
揺らめく魔力から、元はかなりの魔女だったのだろうと推測できる。
「それが切り札?」
「はい……と、言いたいところですが。任務内容に合った駒だけを連れてきました」
後は現地で幾らでも調達できますから……と屍姫が妖しく嗤う。
優秀だからといって過剰な戦力を連れ歩くと、却って負担になってしまうのだろう。
消耗が激しくなれば屍姫本体が無防備になってしまう。
どちらの駒からも大罪級並の魔力を感じられる。
強敵を仕留めることで戦力を高められるのはクロガネだけではないらしい。
「うぐっ……分かりました。怨廻を殺ります」
戦力として明らかに差がある。
そんな咎めるような視線を受けて、真兎が観念したように肩を落とす。
彼女の反応は至って普通のものだ。
これまで戦いと無縁の生活を過ごしてきたのだから、真兎の本心としては今後も染まりたくないと思ってしまうのも無理はない。
だが、それではこの世界で生き延びられないのだと。
他でもないクロガネ自身が嫌というほどに味わってきた。
依頼を引き受けるにしても、無責任に仕事だけ果たすのも矜持に関わる。
「使い方を教える。手早く準備して」
File:怨廻
エーテル公害による産物。
災害等級は咎人級-愚者級で個体差がある。
共通するのは"何かになり損ねた不定形の黒い液体"という情報のみで、発生場所によって姿形が異なることも。




