44話
体の感覚が戻って、思考も冴えている。
魔力に満たされたことで倦怠感も消え失せた。
消耗による魔力欠乏はクロガネが想像していたよりも酷い症状だったらしい。
頭痛や目眩だけでなく、重要な身体機能にまで影響を及ぼす。
下手をすれば、戦いの最中に身動きが取れなくなってしまいかねない。
次からは気を付けなければ――と、自責しつつ横目で色差魔の様子を窺う。
「ほぁぁ……」
情けない顔をして、地面にへたり込んで呆けている。
魔力を吸い出された影響はあまりないらしく、ふわふわと夢見心地のようだ。
放置したところで死ぬようなことはないだろう。
彼女は仮にも大罪級の魔女だ。
襲うような者がいたとして、早々に返り討ちに遭うのは目に見えている。
路地裏に色差魔を捨て置いて、クロガネは身を隠せそうな場所を探す。
魔力が回復したおかげか疲労は薄れている。
作戦開始までの間に少し仮眠を取れれば十分だ。
適当なビルに目を付ける。
近辺で一番高い場所――その屋上であれば、人目に付くこともないだろう。
防災用の非常梯子が見える。
いたずら防止のため高い位置に付いているが、今の身体能力なら魔法を使わずとも余裕があるくらいだ。
軽快に跳んで梯子を掴むと、素早く駆け上がって屋上に転がり込む。
周囲を『探知』――特に休息を阻むような物は無さそうだ。
「……ふぅ」
魔力がある程度まで回復して気分はかなり良くなっている。
疲労が完全に消え去った訳ではないが、仮眠を取ればそれも解消されるはずだ。
これならば、作戦開始までに万全の状態まで戻せる。
「……」
レドモンドに直接的な恨みを持っているわけではない。
あくまで仕事として、彼の企みを阻む必要があるだけだ。
呆れたように嘆息する。
アダムの"意図"に気付いてしまった時点で命を奪う以外の結末は無い。
◆◇◆◇◆
――アルバ第四コンビナート。
メーアトルテ西部、リュエス区の港に位置するコンビナート群の一つ。
海を跨いで輸送されてきた石油資源を扱っている施設だ。
その一区画に積み重ねられた金属製のコンテナの山。
質こそピンキリだが、総額にすればそこらの富豪に肩を並べられるほどの資産となる。
とはいえ、これは継続的な収入にはならない。
エーテル公害の影響で部分的にエクリプ・シスの層が生まれたものの、既に鉱脈は枯れきって放棄されている。
「……積年の夢が、ついにこの手に」
感嘆が溢れ出る。
レドモンド・アルラキュラス――この男が抱く野望は、ただ財を築くだけに留まらない。
「さて、鑑定証は御覧いただけたでしょうか――アグニ様」
「ふむ……悪くない条件だね」
頷いたのは、アグニと呼ばれた赤毛の女性。
その素顔は白い仮面で隠されて見えないが、対面するレドモンドが緊張してしまうほどの存在感があった。
高価な椅子で足組みをして、目を通し終えた紙束をレドモンドに手渡す。
「今回、私が持つ推薦枠は三つ。争奪のため、数十人が財を積み重ねてきたが――」
レドモンドは息を呑む。
今夜こそ、人生の転機となる"身分昇格"の審査だ。
「――高煌度エクリプ・シスは、金貨の山よりずっと価値があるだろうね」
合格だ――と、アグニが告げる。
レドモンドの脳内を意識が飛びそうになるほどの幸福が満たす。
「喜ぶといい。夜が明ける頃には、キミは一等市民となっているだろう」
「あぁ……人生最大の感謝を、貴女様に捧げましょう」
彼は身分を購入したのだ。
一生遊んで暮らしても有り余るほどの財を擲ってまで。
大半の市民は生まれ持った一等から三等までの枠組みに囚われる。
三等市民は虐げられ、忌み嫌われる。
二等市民は中間層として搾取される。
そして一等市民こそ、招待と承認制度によって維持され続けてきたこの世界の特権階級だ。
議会に集う政治家たちでさえ、承認されなければ一等市民に上がることは出来ない。
そのため、各一等市民が持つ"推薦枠"を巡って激しい争奪が起きるのだ。
レドモンドは試練を乗り越えた。
目の前にいる一等市民――アグニから、推薦枠を買収することに成功したのだ。
「この後の運搬はどうなっているのかな?」
「輸送車を手配してあります。ご指定の場所に、明け方までに」
手際の良い仕事だ、とアグニが言う。
レドモンドはアルケミー製薬内で幹部を務めるエリートだ。
失態を犯すなど早々有り得ない。
本来なら、後ろ暗い手段を用いずとも贅沢三昧が出来たはずだ。
一等市民の身分を望まずとも、一般人から見れば恵まれた人生を過ごせることだろう。
「……なぜ、と。疑問を抱いていらっしゃるのでしょう?」
「当然」
これまで様々な人間を見てきた。
推薦枠争奪のために賄賂を積み重ねてきた中には三等市民も含まれている。
「一等市民の座を欲する理由は人それぞれだ。まあ……語りたいなら、止めはしないよ」
達成感による高揚が、レドモンドに銘酒のような気持ち良さを与えているのだろう。
一等市民に上がるには相応の苦労を要していたはずだ。
好きに語らせたら良い――そう考えていたが。
「いや――まだキミには最後の試練が残されているようだ」
アグニは肩を竦める。
この場所に向けられた敵意を"魔女"として察知していた。
「くッ……ここにきて、厄介な」
遅れて聞こえてきたのは、断続的で無機質なサイレン――窓から覗いてみれば、魔法省の車両が多数近付いてきている。
横領以外の不正がバレてしまったのだろう。
背に銃口を突き付けてきていた彼らが、ついに引き金に指を掛けたのだ。
「助力は必要かい? レドモンド君」
この窮地を脱する手段は限られている。
最も効果的なものはアグニという一等市民の存在だ。
彼女が一声命じれば、魔法省の捜査官たちは大人しく引き返さざるを得ない。
特権階級の言葉を無視するわけにいかない。
もし同等の権力者が紛れていたとしても、アグニは強い力を持った魔女だ。
並みの捜査官では暇潰しにもならない。
「……いえ。私の力で処理しましょう」
レドモンドの矜持がそれを許さない。
会社で昇進を重ね、裏社会との繋がりさえ持って――この躍進は、全て己の成果だと豪語したい。
ここが正念場だ。
「それはよかった。キミに失望せずに済んだよ」
アグニは愉快そうに嗤う。
無様に縋り付いてくるようならば、容赦なく切り捨てるつもりでいた。
法は一等市民に対して効力を持たない。
内部でのパワーバランスによって秩序は保たれているが、望みさえすれば犯罪行為に手を染めてもいい。
例えば、この場で約束を反故にしてエクリプ・シスだけ強奪したとしても咎められることはない。
「では、健闘を祈っているよ――」
一等市民に迎え入れるにしても、相応しい品格というものがある。
知性の無い愚者を招待するつもりはない。
それを特等席で見定めるという行為は、彼女にとって最高の娯楽だった。
File:アグニ・グラ-page1
約百人ほど存在する一等市民、その中でも上位の影響力を持つ女性。
彼女が推薦した人物は必ず一等市民になれると言われており、賄賂等で取り入ろうとする者は多い。
常に顔を覆う大きさの白い仮面を付けているため、その素顔は誰も知らない。