318話
不快な浮遊感と酩酊、視界の暗転。
それは少女の人生において体験したことのない感覚だった。
ただ、強烈な恐怖だけが脳を支配していた。
嫌な予感がしてならない。
だが抵抗する手段もない。
底無し沼に沈むような絶望感を抱いて、次に目を開けた時。
『――実験体の意識が覚醒。試式メディ=プラント施術に移行する』
無感情な男の声。
なぜだか顔を上手く認識できないが、きっと凍えるような冷たい目をしている……そんな気がした。
思えば、まだそこまでは正気を保てていたのかもしれない。
直後に施術が始まった。
悪夢の始まりだ。
腹部を切り開かれた時、自分が危険な状況に置かれているのだとようやく気付いた。
そして恐怖から泣き叫んで手術を止めるよう懇願した。
――どうして、病気をしているわけでもないのに。
理解が及ぶ相手ではないと知ったのは、翌日意識を取り戻してからのことだった。
◆◇◆◇◆
地下空間には、どこまでも昏い闇が広がっていた。
酷く濁ったエーテルで満たされている。
エーテル値を計測する必要はない。
肌で感じられるだけでも馬鹿げた数値であることが分かる。
ここまで危険な場所は他にない……と、クロガネが警戒する。
「アルケー戦域を知っているか?」
ユーガスマが尋ねる。
知識としては、クロガネが知っていることは一般に広まっている範囲と大差ない。
だが、彼はその場所をよく知っている。
「ここは、エーテル濃度だけならばあの場所に匹敵する」
地上で最も危険な場所といえば、誰もがアルケー戦域のことを思い浮かべるだろう。
一帯を満たす高濃度のエーテルによって凶悪な魔物が大量発生している。
そんな場所を例えに出したことには理由がある。
「……魔物がいない」
クロガネが呟く。
C-5区画での事変からだいぶ時間が経っている。
にも関わらず、この場所には全く魔物の姿が見えない。
そんな事は有り得ない。
警戒しつつ暗闇に目を凝らすと。
開放された隔壁の向こうから漏れ出す光が、散乱する魔物の死骸を微かに照らしていた。
「――ッ!」
暗闇の奥に一つ。
これまで感じたことのない気配があった。
項垂れて地べたに座り込む少女が独り。
頑丈な首枷に何本もの太い鎖で繋がれて。
爛々と殺気に光る、濁った目でこちらを見据えている。
『……来ちゃったんだね』
少女の周囲には激しいノイズが走っている。
間違いなく"悪魔堕ち"のようだ。
「さっきから鬱陶しく殺気を向けてきたのはあんた?」
クロガネが銃を構える。
繰り返し、警告するように何度も殺気を向けられていた。
『そうだよ』
鎖をジャラリと鳴らす。
首枷のせいで、この地下空間内でも行動を制限されているらしい。
魔物が発生したとしても逃げ場は無い。
『だってさぁ――』
少女がゆっくりと立ち上がる。
もはや服と呼べないような布切れを纏っているが、その肢体の大半が露わになっている。
そんな事を気にしている様子もない。
その蒼い眼に宿る感情は――歓喜。
首枷のロックが解除される。
今、この時間だけ彼女は自由を得た。
魔物培養槽に閉じ込められて身動きもろくに取れなかった。
襲い来る魔物を退けながら、その血肉を啜って生き長らえてきた。
そうしてまで命を繋いできた。
『――来たら、殺しちゃうから』
少女の身体から昏い魔力が立ち昇る。
その量も脅威だったが、それ以上に――。
「原初の魔女ッ……」
背中に『創造』の羽を生やし、手元には『破壊』の力を纏っている。
少女は紛うことなき"悪魔"の姿をしていた。
それだけではない。
《――実験体0012Δへの戦闘支援を開始します》
外部から――このセクタβに残存する煌学エネルギーが少女の身体に供給されていく。
見覚えのあるエーテルの流れ。
かつてアグニが見せたラプラスシステムによる戦闘支援と同様、彼女も遠隔で強化されているようだ。
「欲張りすぎ」
あの男らしいふざけた研究だ……と呆れつつ、
――『解析』
『探るのやめて、気持ち悪い』
「ッぁ――」
強引に魔法を解除され、クロガネが反動に呻く。
それが意味するところはただ一つ。
目の前の悪魔は自分より格上の存在ということだ。
魔力量に大きな差がなければ、ここまで完全な阻害はできない。
「……チッ」
ほとんど何も得られなかった。
その中で唯一、有用な情報があるとすれば。
――少なくとも、この"悪魔堕ち"に原初の魔女との繋がりはない。




