317話
――セクタβ、最深層。
魔物を退けながら、ひたすらに地下に降り続け。
時間の感覚が曖昧になってきた頃合い。
「ここが……」
辿り着いた終着点。
厳重なセキュリティが掛けられた、魔物培養槽への入口を見下して息を呑む。
床部分には巨大な円形の隔壁があった。
開けてしまえば、内部に囚われている実験体を解き放つことになる。
あの男が興味を抱くほどの存在を相手に、安い挑発に乗って殺し合うなど馬鹿げた話ではあった。
長時間の移動を終え、二人は休憩も兼ねて足を止める。
過酷な訓練を行ってきた二人に体力的な疲労は少ない。
だが、フォンド博士による接触が精神的な疲労を生じさせていた。
どうにも嫌な予感がしてならない。
気を紛らわすため、クロガネは懐からタバコケースを取り出す。
「……はぁ」
中身は空だった。
最近はストレスのせいか、気付かない内に吸う頻度が増えていたらしい。
そろそろカルロが次を用意している頃だろうと思いつつ、クロガネは壁に背を預けて休む。
軽く視線を持ち上げると、ユーガスマが隔壁を見下して何やら独り言を呟いていた。
「安易に手出しすべきではない……が」
結論を前に口を噤む。
フォンド博士が用意した"報酬"も無視できない。
この研究施設に関するデータベースには、二人にとって有益な情報が無数に保管されていることだろう。
癪なことに、彼が持つ情報は極めて価値が高い。
一つでも取りこぼしてしまえば、きっと今後の動乱に置いていかれてしまう。
「博士のことだ。これも恐らく、達成不可能な戯れではないのだろう」
結果が決まっている筋書きなどつまらない。
これは世界最高の頭脳を用いて生み出された、悪意に満ちたゲームなのだ。
問題は、その難易度がどれほどのものなのか。
クロガネとユーガスマ――フォンド博士にとって最高傑作と呼ぶべき二人を誘き出して、その上で勝負になるような敵役を用意しているはずだ。
何時だってそうだ。
彼は何らかの思惑があって社会に干渉し続けている。
その全容が見えない限り、自分たちは従わざるを得ない。
それを覆すための調査だった。
だが今回も彼の掌の上だ。
ご丁寧に"隔壁開放"と記されたスイッチまで用意されている。
「……少なくとも、ここがエーテル公害の原因であることは間違いないようだ」
視線を持ち上げれば、溶解したような大穴が空いている。
高濃度のエーテルが解放され天井を突き抜け、そこから凶暴な魔物たちが一斉に地上に噴き出したようだ。
見上げても地上の光は届いていない。
かなり深くまで降りてきたらしい。
「黎明の杜が人為的にエーテル公害を引き起こしたとして。博士はそれを見過ごしたということか」
彼が気付かないはずがない、とユーガスマが呟く。
そして、この施設の存在を黎明の杜が把握しているということにも疑問が残る。
その言葉を聞いて、ふとクロガネは思い出したことを口にする。
「悪魔式を覚えてる?」
「氷翠という魔女の能力か」
ユーガスマが振り返って尋ねる。
彼は以前、魔法省の会見を警備する際に氷翠と対峙していた。
彼からすれば赤子の手をひねるようなものだったが、その時点の悪魔式は不完全な状態だった。
様々な能力を集め自在に操る――放置すれば想定外の事態が起こりかねない、特異な魔法の一つでもある。
「その魔女も実験体の一つだった」
――実験体0050Σ。
遺物に宿る召魔律を蘇らせるための研究。
悪魔式は供物であり、氷翠はそれを集めるために意図して解き放たれただけに過ぎない。
情勢を動かすために利用され、黎明の杜を率いた氷翠。
魔法省に配備された機動予備隊のハクア。
今回、魔物培養槽に閉じ込められている実験体。
それぞれに役割を与え、世界が辿る道を矯正している。
自分自身も未だ筋書きから逃れられていない……などと、そんな嫌な考えが浮かんでしまう。
「意図して地下施設を利用させたか。全容は把握していなくとも、遠隔操作で魔物培養槽を開放できるなら有り得る話だ」
「……アルケミー製薬を経由して干渉していたかもしれない」
今思えば不自然な話だった。
当時、アルケミー製薬の代表取締役だったヴァルマン・レセスは黎明の杜と繋がっていた。
そして彼の執務室を襲撃したあの時も、今回と同様にフォンド博士から接触を受けていたのだ。
「ふむ、調査する必要があるな」
「こっちで調べる」
ツテがある、とクロガネが告げる。
後任として新たに就任した人物こそ、以前敵対していたマッド・カルテルのリーダーであるレドモンド・アルラキュラス。
つい先日、屍姫が接触したばかりだった。
友好的に付き合える相手ではない。
だが、彼の"我々が利害で対立することはない"という発言に偽りがなければ、ヴァルマンとフォンド博士のやり取りに関する記録を提出しても問題ないはずだ。
「……」
真実に近付いたようでいて、何かを掴んだわけでもない。
順に追っていても、それ以上の速度で事態は動いているのではないか。
そんな漠然とした不安を感じているのは、きっとユーガスマも同じだろう。
考えていても仕方がない。
今は行動あるのみだ。
「休憩は済んだ?」
隔壁の開放ボタンに手を添えて尋ねる。
立ち止まっていたところで、大して気が紛れるわけでもない。
「十分だ」
いっそ化け物と殺し合いでもしていたほうが気が楽だ。
二人の考えは一致していた。
そのまま力強く押し込むと、隔壁のロックが解除され――。




