316話
研究施設を進み続け半刻ほど。
巡回の機械兵と遭遇する以外では、特に敵も見当たらなかった。
だが、着実に。
「……近付いてる」
視界に走るノイズが激しくなってきている。
それだけ、この施設に潜んでいる悪魔堕ちとの距離が近くなってきた証拠だ。
エスレペス北工業区域に発生した大規模なエーテル公害。
天変地異とも呼ぶべき凄まじい災害の元凶と邂逅する時が、すぐ間近にまで迫っている。
「待て」
ユーガスマが制止する。
何かに気付いた様子だった。
視線の先を辿ると、通路の端に黒いゲル状の何かが蠢いている。
這いずるように移動するそれは、封鎖区画内であれば珍しくない生き物。
――怨廻。
エーテルの濃い場所に自然発生する魔物。
危険性は極めて低く、魔物として分類されているが動きは幼子でも簡単に逃げられるほど緩慢だ。
体の殆どがエーテルによって構成されている。
煌生物学においては負の感情を司る魔物と呼ばれている。
移動する際、時折苦しみ悶えるような不可解な流動を見せるが、
「……ノイズに反応してる?」
「そのようだ」
大気中のエーテルにノイズが走る度、怨廻が刺激を受けたように激しく波打っていた。
その現象を知ったところで生態を暴けるわけではない。
これが研究施設内に発生していることと関連性があるのか不明だ。
怨廻自体は脅威ではない。
サイズも小さいため、それこそ簡素な鈍器を振り下ろすだけでも容易に無力化できる。
しかし、二人の目の前には違う光景が広がっている。
あまりにも数が多すぎた。
何に誘われて迷い込んだのか、あるいは何らかの要因で異常発生しているのか。
夥しい数の怨廻が這いずり回っていた。
無視して進むには厳しい数だ。
排除するには手間だが、機械兵とは異なりこちらは魔物だ。
低級のため得られる力は微々たるものだが、クロガネが仕留めることで魔力を強化することができる。
放置して後退時に支障が出るリスクも避けたい。
「全部潰していく」
この程度なら能力を使うまでもない。
すれ違いざまに踏み潰せばいい。
臆することなく歩みを進めていく二人だったが、集中を遮るようにアラームのような電子音が鳴り始めた。
二人のいずれでもない通信端末が、通路の真ん中で着信画面を表示していた。
意図的に設置された連絡手段。
誰かに観測されているはずもない研究施設内に、こうもタイミング良く現れるものなのかと。
クロガネは不愉快そうに端末まで歩み寄り、怨廻と同様に踏み潰す。
電子音はそこで途絶えた。
「……いいのか?」
「別に」
不愉快だから、ただ八つ当たりをしたいだけ。
この行動が無意味だと知っている。
そんな予想を裏切ることなく、直後には何歩か先の地面に何かが落下してきた。
同型の通信端末だ。
すぐにそれは、先ほどと同じように着信を知らせ始めた。
今度はユーガスマが端末を拾い上げ、応答する。
「……何者だ」
『よくぞ、セクタβ深部まで辿り着いた』
その言葉は二人を称えているわけではない。
筋書き通りに進んでいることを伝達しただけに過ぎない。
声を聞けば、通信相手が旧知の人物だと気付く。
「博士か」
『ああ、そうだとも。元執行官殿』
CEMの最高責任者――グリムバーツ・アン・ディ・フォンド博士。
人類最高峰の頭脳を持つと言われる彼は、今回の潜入さえも予想していたのだろうか。
「今接触してきたということは、この研究施設は博士が生み出したもの……その認識で相違ないな?」
『まだ魔法省での癖が抜けていないようだ。順に確認をする必要はない』
二人の抱く疑問に直に繋がるように。
煩わしい確認を挟まずとも、彼は答えを与えるつもりでいるのだから。
『諸君が侵入しているその場所は、元は"実験体収容施設"だ。C-5区画の地下にて、用済みとなったサンプルを保管する場所だった』
だが、とフォンド博士は続ける。
『最深部は完全に放棄されている。放棄された実験体の一つが突然変異を起こしたことで、管理不可能なエーテル数値を示すようになってしまった』
「件のエーテル公害に現れた魔物もそういうことか」
地下の惨状を見れば、地上に溢れ返っていた魔物たちの数も頷ける。
いずれも高濃度のエーテルを浴びて変異した生き物だった。
『特異なエーテル環境を構築していた地下を魔物培養槽として再利用することになった。そして、突然変異を起こした実験体――0012Δの経過観察も行っていた』
「ッ――!」
聞き覚えのある文字列に、クロガネは通信端末を奪い取って尋ねる。
「遺物を埋め込んだ実験体がいるの?」
殺気立っていたが、僅かに声が震える。
Δシリーズは自身と同じ施術を受けたであろう研究軸だ。
ここには自身と同じ悪夢を見た人間がいる。
それも、同じ世界からの連れてこられたのであれば――。
「答えて」
『貴様のような殺し屋でも、やはり同郷の人間となると気になるらしい』
――そうだろう、0040Δ。
フォンド博士が嗤う。
この研究施設こそ、彼の狂気を詰め込んだ箱。
端から放棄などされていなかった。
ではなぜ、放棄したと見せかけていたのか。
クロガネたちを誘き出したのか。
『彼女に会ってみるといい。未だに対話可能な自我を残している』
「お茶でもしろって?」
『選択は諸君に委ねよう』
殺すも生かすも好きに決めるといい、と。
そこまで話し終えると、フォンド博士はわざとらしく「そういえば」と付け加える。
『施設内の研究データはセキュリティに守られている。解除キーは彼女の死だ』
その言葉を最後に通信が切れた。
自身の憤りをぶつける事も出来ず、クロガネは通信端末を床に叩き付けて壊す。
尋常ではない様子を見て、ユーガスマも先ほどの会話に抱いた疑問を呑み込む。
あまり見ない取り乱し方だった。
「……ッ」
吐き気を伴う不快な苛立ちが込み上がっている。
これほど大きなストレスを感じることは久々だった。
あの男はそういう人間だ。
悪趣味な仕掛け幾つも用意して、自分は安全な場所から観測するのみ。
人々の感情に無関心で、何よりも自身の知的欲求を満たすことを優先するマッドサイエンティストだ。




