312話
――ユリンホーフ居住区、D-4。
夕暮れ時、日が沈みかけて夜の闇が訪れようとしている頃合い。
トリリアム教会の前には長蛇の列ができていた。
汚れた衣服を身に纏った者たちが、老若男女入り混じっている。
その視線の先では、にこやかに鍋からスープを掬っているミラがいた。
近くにはアルミ製の蓋付きバットが積み重ねられている。
中身は様々な種類のパン――各所から廃棄品を掻き集めてきたものが大量に入っている。
「あい、たくさん食べてくださいよー」
よそ行きの笑顔を見せながらスープを紙皿によそって、パンと一緒に手渡す。
繰り返し感謝を述べる者もいれば、虚ろな顔で無言で受け取る者もいる。
大半は後者だった。
(あー、早く終わんねーですかねえ)
三等市民向けの炊き出しだ。
視線を横に動かしても列の最後尾は見えない。
既に三十分ほど経過したが、むしろ待機数は増えているように思えてしまう。
さすがにこれだけの人数を捌くのは時間がかかる。
口元が寂しく感じつつも、まだ辛うじて笑顔を絶やせずにいるはずだ。
こういった際には、ミラは大衆向けの看板として振る舞わなければならない。
トリリアム教会の行う表向きの慈善事業。
近隣地域の貧困層に向けた炊き出しは、魔法省に対して効果的な隠れ蓑となっている。
もし捜査の手が及んだとしても三等市民たちは必死になって庇ってくれることだろう。
彼ら彼女らにとっての生命線だ。
毎日ではないにしても、こうして不期的に栄養価の高いものを摂取する機会があるだけで生活は大きく変わってくる。
鬱屈した日々にほんの僅かだが楽しみを与えてくれるという意味でも貴重だ。
その重要性を理解しているからこそ、ミラは聖女のように振る舞って配給を続ける。
決して心の中で「これ絶対カフカのが向いてるんじゃないですかね」などと愚痴を言ってはいない。
「あい、焦らずゆっくり食べてくださいねー」
一人ずつ手渡しで進めていくのは手間だが、こうして管理しなければ奪い合いなどの争いになりかねない。
とはいえ、丁寧に配っていても厄介な人物が現れてしまうこともある。
「あー、ちょっと後ろの方でなんか騒いでますね」
列に横入りでもしたのだろうと予想しつつ、近くにいた構成員に対処を指示する。
人数が集まれば揉め事が起きてしまうのが道理だ。
様子を見つつ、必要があれば手荒に排除してしまえばいい。
こうした人間は貴重だ。
騒ぎを起こして迷惑をかけてばかりの、いなくなっても"どうでもいい"と思われてしまうような存在。
そんな人物を連れ去って使い捨てたところで誰も困らない。
並んでいる人々も、わざわざ列を離れてまで弾き出された者を追いかけようとは思わない。
むしろそれが当然と言わんばかりに侮蔑の視線を向けるだけだ。
そうして誘拐した者たちを、トリリアム教会の地下で薬物漬けにして再利用するのだ。
思考力を奪ってしまえば命を投げ捨てるような指示さえ受け入れてしまう。
本当に良くできている、とミラは身震いする。
カフカの脳内にはいったいどれほど悍ましい思考が渦巻いているのだろう、と。
そこに悪意はない。
非倫理的な手段さえ純粋に"効率的だ"と考えて実行するあたりが、カフカという人物の歪んだ人格の一端を垣間見せている。
そんな彼女だからこそ、
(だから、あんなやばい連中とつるんだりしちゃうんでしょうねえ)
ミラは嘆息する。
その精神性を評価して接触してきた化け物たち――ディーナと名乗る軍服姿の少女を始めとした軍務局の上層部。
リスクの塊のような取引を、カフカは旧友でも迎え入れるような顔をして承諾した。
軽率な判断だと思わないでもない。
基本的に優秀な頭脳を持っているが、その場の気分で方針を決めることも多々ある。
――その方が面白いからね。
カフカの口癖だ。
何事にも刺激を求め、自らを危険に晒すような真似を平気で行う。
面白いか否かで物事を決めるため、時には酷い巻き添えを食らうこともあった。
どうにも危険な綱を渡りたがってしまう。
刺激を求めなければ、カフカなら大半のものは手に入れられるのでは。
ミラは本気でそう考えている。
だが、今回に至っては極大のリスクに釣り合う利益も上げられている。
実際にトリリアム教会は規模の拡大に成功した。
軍務局から提供された対魔武器の数々は、資金繰りだけでなく二人の戦闘能力を引き上げることにも繋がっている。
金遣いの荒さには自覚のあるミラだが、最近では何も考えずとも貯金は増えていくばかり。
嗜好品の類も一切躊躇せずに買い漁れるくらいだ。
そこまで考えが繋がったあたりで、
「あー、そろそろヤニ切れが……っと、いけない」
普段の気怠げな顔付きに戻りかけて、慌てて背筋を伸ばして口角を持ち上げる。
炊き出しに夢中になっているせいかバレていないようだ。
あれこれ連想している内に思考が元の場所に戻ってしまった。
この退屈な時間を乗り切るには、まだまだ暇潰しをしなければならないようだ。
そう思っていたが、
「お疲れ、ミラ」
何を思ったのか、炊き出しの配給にカフカが姿を見せる。
演者として表に姿を見せることは珍しい。
普段通り目元は布を巻いて隠してあるが、服装は教会の神父と同じものを着用している。
「逆に怪しくないですかそれ」
「そうかな? 普段着で手伝うわけにもいかないから着替えてきたんだけれど」
カフカは肩を竦める。
服装がおかしいという自覚はないらしい。
わざわざ教会関係者と分かるように服装を変えてきたようだ。
そのまま待機列に声をかけ、先ほどまでのミラと同じように配給を始める。
「……え、もしかして代わってくれるんですか?」
「そのもしかしてだよ」
まさか彼女が純粋に労ってくれるはずがない。
対外に向けてポーズを取っているだけで、きっとこの場でやりたい事があるのだろう。
「私は何してればいいんですかね?」
「ちょっと休んできなよ。気付いてるか分からないけど、結構酷い顔してるよ」
そろそろヤニ切れだよね、とカフカが笑う。
当前だが、ミラを気遣って休憩時間をくれるというわけではない。
「たまには、私も炊き出しに並ぶ人たちの喜ぶ姿を見たいからね」
利用できそうな馬鹿を探したい――そういう意味だ。
人間らしい感情を持ち合わせていないはずの彼女だったが、何故だか人間観察の精度は高い。
ミラがトリリアム教会に勧誘されたのもカフカの目利きによるものだ。
目的が分かれば自分がすべき事も見えてくる。
洗脳作業に必要な薬物などを用意しておけばいい。
「それじゃ準備だけしてから休憩貰いますね」
「先に休憩を挟んでもいいよ。こっちも時間はかかるからね」
ミラにとっては救いの手だった。
まだ一時間は続くと思っていた苦行が急に終わったのだ。
欲しいものを見抜かれて動かされているあたり、自分も随分とカフカに調教されている……と、嘆息しつつ提案を受け入れる。
表面上だけでも、こうして飴をくれるだけ過去の雇い主たちよりずっとマシだった。




