308話
セクタβに入るにはセキュリティを突破する必要があるようだ。
強固なセキュリティが施された巨大な入口。
この先には、これまで得られなかった"悪意の上澄み"が隠されている。
クロガネは徐ろに手を翳し、
「――『解析』」
システムに侵入する。
電子ロックを解除するには生体認証が必要らしい。
当然だが、二人ともこの施設に立ち入る権限など持っていない。
配管の入口と違い、こちらは無理やり抉じ開けるにはリスクが大きい。
放棄されているとはいえ未だ稼働している研究施設なのだ。
セキュリティに引っ掛かってしまうと、何らかの防衛システムが起動する可能性もある。
「開けるよ」
そう呟いて、手元に魔力を集中させる。
掴むような動作で手を握り――セキュリティシステムを圧し折るように腕を引く。
ドアの内側から鈍い金属音が響く。
だが、警報が鳴る気配はない。
どうやら成功したらしい。
「……器用なものだ」
「どうも」
入口のセキュリティは解除された。
こういった能力を持っていることを危険視しつつも、今回は手段を問わないと決めたためユーガスマも咎めようとはしない。
「まだ余裕があるようだな」
クロガネはあまり消耗した様子はない。
ここまでの道程で魔物を何体も排除してきたが、それぞれを確実に仕留められる最小限の魔力のみで片付けている。
相手の強さを正確に見極められる観察眼を持っている……と、ユーガスマはそう評価した。
「……ッ」
ドアに手を掛けると同時に強烈な殺気が向けられる。
酷く淀んだ魔力――特異なノイズ混じりのエーテルが、研究施設に足を踏み入れた瞬間に濃くなった。
やはりこの先には"悪魔堕ち"が潜んでいる。
対話が可能かどうかは不明だ。
どうせ処理するなら、まだ知性の無い状態の方が仕留めやすい。
「悪魔堕ち、か」
道中、ユーガスマには悪魔堕ちに関する情報を共有していた。
まだ不明な点が多いものの、僅かでも情報を渡して損はないだろう。
「知性が残る場合と失われる場合と……どのような要因があるのだろうな」
この変異には、莫大な力を得られる代わりに自我を崩壊させるリスクを伴う。
凶暴化した魔女の成れの果てをクロガネは何度も倒している。
「軍務局長を知ってる?」
「軍の人間は表に姿を見せること自体が稀だ。会ったことはない」
政府直属の執行機関。
魔法省のような治安維持組織と違い、軍務局は政府によって運用される私兵のようなもの。
少なくとも、世間的な認識はそうなっている。
「それがどうした」
「軍務局長は悪魔堕ちだった」
軍務局長テロメア・レネア・レウ。
今の自分でも実力を測れないほどの力を持つ化け物だ。
「軍務局はアグニを中心に議員たちを動かして、政府を操ろうとしている」
ユーガスマにとって最も重要となるであろう内容。
以前一等市民居住区に乗り込んだ際、アグニを尋問して得た情報だ。
「あの小娘は黒幕ではないと」
「あれも傀儡の一つに過ぎない」
議員を取り込んで政府を乗っ取る。
そうしてラプラスシステムの権限を独占することで、何か大きな事を仕出かそうとしている。
「……裏取りはするつもりだが」
ユーガスマは拳を固く握る。
己の人生を弄んだのは誰だったのか――その疑問が晴れた。
「その軍務局長は今、何をしている?」
「死んだよ」
それも、あまりにも呆気なく。
圧倒的な力を持つ個でさえ抗えない"理不尽"が降りかかったのだ。
「裏懺悔が殺した」
もはや理解できない領域にある。
この問題を解き明かすには手掛かりが全く見当たらない。
軍務局長は何を目論んで危険因子を潰して回っていたのか。
そんな彼女を消し去った裏懺悔は、そもそも何を目的に行動しているのか。
全く分からない。
ユーガスマも裏懺悔と対峙したことがある。
奇しくもそれは、東部エデル炭鉱で人為的に悪魔堕ちが生み出された事件と同じタイミングだった。
「ヤツはまさしく災害そのものだ。悪魔堕ち絡みの事件に興味を示しているとして……かといって脅威となるわけでもないだろう」
裏懺悔の実力は未だに底が知れない。
一体どれほどの魔力を保有しているのか。
少なくとも、現代の煌学技術では測ろうとしてもエラー表示が出るだけだ。
悪魔堕ちがどれだけ厄介な存在だったとしても関係ないはずだ。
他に何か意図がなければ、何の被害も受けることはないであろう事象についてあれこれ探る必要はない。
そんな裏懺悔について、ユーガスマには一つ大きな疑問があった。
「戦慄級『裏懺悔』……ヤツは未だに"魔法"を扱う様子を見せたことがない」
あまりに強大すぎるが故に、皆が見落としてしまう事実。
化け物じみた力を持っているという以外の情報は謎に包まれている。
裏懺悔も魔女であって、何らかの能力を持っていなければおかしい。
だがその一端すら見せたことがない。
その必要がある相手がいないというのが実際のところなのだろう。
「……裏懺悔も魔法を使ったことがある」
ユーガスマの言葉を否定する。
これまでにクロガネは二度も見てしまった。
一度目は、フォンド博士の研究施設から脱出する時。
二度目は、何気ない電話をかけてきた時。
どちらもお遊び程度の感覚で使っていたようだが、クロガネは魔法の行使を認識できていた。
「裏懺悔が魔法を使うと世界が静止する」
時の流れが止まったように。
あらゆる社会の営みは凍結したように動かなくなる。
空では羽を広げたままの鳥が浮いていて、人々は鼓動さえ聞こえないオブジェクトとなって固まる。
「世界が静止する、か……」
とてもだが個人で扱えるような規模ではない。
馬鹿げた話のように思えるが、裏懺悔の魔力量を考えれば不可能と切り捨てることもできない。
考えたところで答えには辿り着けない。
そんな不可解なものを幾つも抱えている二人は、歩みを進めながら話を続ける。




