3話
一切の猶予も無い。
狂暴な魔物が、クロガネの血肉を求めて駆け寄ってくる。
「――いやっ、来ないでッ」
足が縺れそうになりながらも、辛うじて駆け出すことはできた。
恐怖で足が竦んでしまえば死に直結する。
十五の少女が、巨大な化け物を相手取るなど馬鹿げた話だ。
格闘家と子どもくらいの対格差があるというのに、握り拳を突き出したところで意味を成すとは到底思えない。
武器が必要だ。
だが、剣と盾を持って戦えるほど勇敢でもない。
かといって、重火器の扱いに慣れているはずもない。
思考に気を取られている間に――すぐ耳元に唸り声が聞こえた。
「ひっ……」
慌てて転がるように飛び退くと、悪食鬼の大振りな拳が空を切っていった。
動きは存外に鈍く、避けられないほどではない。
「……でも」
距離を取りつつ、辺りを見回す。
動き回るのに十分な広さはあったが、逃げ惑うには狭すぎる。
それに、部屋の角にでも追い詰められてしまえば、対格差も相まって窮鼠となってしまう。
殺し合わせるために設計された部屋なのだ。
無様な敗走は許されず、命ある限り戦い続けなければならない。
『随分と呑み込みが早いではないか』
「――ッ!?」
再び聞こえた声に、クロガネは破裂しそうな心臓を押さえ付ける。
呼吸を乱して動きが衰えることは避けたい。
『死の危機に瀕して、脳が強制的に生命機能を停止するような脆弱も多い。小娘は却って……思考が澄み切っている』
そこには素直な称賛があった。
濁った期待と利己的な打算をクロガネに向けている。
一方のクロガネもまた、冷静になってきた思考が、唯一の相談相手を見出だしていた。
「……あなたはいったい何者なの?」
この世界に来てから、脳内に響くようになった声。
喉元をきゅっと締め付けてくるような悪戯めいた威圧感を帯びて、しかし、敵対するような悪意までは感じられない。
悪食鬼から逃げ惑いつつ、手助けを得られないか探るつもりだった。
『そうさなぁ。人間共は妾を様々に呼称するが、強いていうならば――』
――"原初の魔女"
「ぐぁ――ッ!?」
心臓を握り潰すように、魂の奥底まで強烈に圧迫される。
決して乱すまいと整えていた呼吸も、肺が押し潰されたように喘ぐことしか出来なくなってしまう。
その名を聞いただけで体が畏縮してしまったのだ。
本能が平伏を望むほどに。
「ぁう……っはぁッ」
強引に空気を取り込んで、胸の痛みを堪えて再び駆ける。
悪食鬼の動きは鈍い。
冷静に対処すれば捕まることはない。
『恐れる必要は無い。あやつらの施術によって妾の遺物は小娘に埋め込まれた。宿主を害するとなれば……此の意識は形を保てずに消滅することになる』
この世界に来た直後、研究者たちによって胴体を切り開かれて何かを埋め込まれた。
それが彼女の言う"遺物"なのだろう。
『先程も言ったが……小娘は運が良い。此処は人為的に魔女や魔物を生み出す施設のようだが、妾の遺物を基にしたとなれば、易々と野垂れ死ぬようなことはまず有り得ぬからな』
自信に満ちた様子で断言する。
その呼称でさえ魂が震えるほどの力を持つ、偉大な魔女の遺物。
たとえそれが事実だとして、それを行使するための知識と経験もクロガネには持ち合わせがなかった。
『万象滅する暴力の魔――"破壊の左腕"』
それが、遺物の名前。
唯一無二の力を持った魔女の加護。
「それは、どうやって使えば――」
『さて、偉大な魔女の力を宿した小娘は如何にして魔物を打ち倒すのか。そして、如何にして生き永らえるのか……愉しませてもらうとしよう』
クロガネの問い掛けに応じることはなかった。
全てを話したと言わんばかりに濁った期待を紡ぎ、やがてその声は途絶えてしまう。
「待って、私はどうすれば――」
魔女の話に集中しすぎてしまったせいだろうか。
ほんの僅かな時間、それも一呼吸程度の間だけ周囲の警戒を怠ってしまう。
「私は――ぐぅッ」
悪食鬼の薙ぎ払うように振るわれた腕が、クロガネの胴体を捉える。
体が二つに折れてしまうのではないかという強烈な打撃を受けて、少女の体など容易く吹っ飛んでしまう。
壁に叩き付けられて、自らの不注意を呪い、苦痛に呻く。
トラックに轢かれたらこれくらいの衝撃だろうか、などと下らないことを考えていた。
「……ん?」
激しい痛みだ。
これまでの人生で感じたことのないほどに。
打撃を受けたあばら骨は全て砕けてしまったかもしれない。
痺れるような熱を帯びて、何故だか高揚感が沸き上がる。
恐怖で狂ってしまうにはまだ早すぎる。
違和感が心を満たす。
「死にたくない……死にたくない死にたくないッ!」
自らを鼓舞するように声を荒げ、悪食鬼に向かって駆け出す。
もし遺物の力をものに出来るならば、動きの緩慢な相手など怖くないはずだ。
刃物でもあれば……と考えて、しかし、現実的ではないと首を左右に振る。
非力な少女が武器を手に取ったところで、悪食鬼のような巨躯を圧倒できるはずもない。
気迫で以て押し切る。
何故だか気持ちが高ぶって、吐息が熱を帯びていた。
「ッ――ぅぁぁああッ!」
勢いをそのままに、全力で拳を突き出す。
これだけ体重を乗せれば、たとえ少女の膂力であろうと、大人でさえ苦悶する威力になるだろう。
だが――。
「……ひっ」
悪食鬼の体は僅かさえ揺らがない。
濁った目が恐怖を想起させ、叩き付けた拳の痛みがクロガネの意識を現実に引き戻す。
――勝てるわけがない。
相手は未知の力を宿した化け物で、自分は犬猫にさえ翻弄されるような生身の人間だ。
熊を相手に素手で戦えと言われているようなものだろう。
ファンタジーらしい単語の羅列に、意識をぬるま湯に引きずり込まれてしまっていた。
これは覚めない悪夢であって、命など容易く失う現実である。
甘えた感情を一時でも抱いてしまった自分を恨むも、その先の結末が変わるわけでもない。
再び鈍い衝撃が体を襲う。
クロガネの非力な拳とは正反対の、岩でさえ粉砕してしまいそうな暴力。
「ぅあッ――ッ」
腹部に拳が深々とめり込んで、肺の空気を強引に押し出される。
今度こそ本当に死を覚悟してしまう。
何故、こんな目に遭わなければならないのか。
絶望の奥底から、理不尽に対して憎悪が湧き上がる。
こんな非道な実験も、訳のわからない現状も、全てに嫌気が差してしまう。
そして何よりも、死の恐怖で竦んで動けなくなってしまう自分が腹立たしかった。
いっそ一撃で死ぬことができたらいいのに……などと考えてしまう。
悪食鬼は凶悪な化け物だが、その拳は即死するほどではない。
骨が砕けてしまったのではと思っていたが、痛みは徐々に引いてきている。
想像を絶する痛みも生温い日常を物差しにしていただけで、今置かれた状況下では大したものではないのかもしれない。
「……ッ!」
歯を軋らせて立ち上がる。
無様な死を選ぶつもりはない。
こんな理不尽に、心まで屈服してはならない。
強く言い聞かせる。
心がタフなわけではない。
辛うじて折れずに耐えていた精神が、自己防衛として恐怖を塗り替えていく。
――憎い。
平穏な日々を崩した研究者たちが憎い。
許されるなら、命を奪ってやりたいとさえ思うほどに。
――否。
力を手に入れればいい。
法に縛られることのない圧倒的な暴力を。
この世界には『魔物』がいて『魔女』がいる。
超常の力を全て管理できるとはとても思えない。
何者も自身の行動を妨げられないように、道を穿ち開くだけの力を得なければならない。
「機式――"エーゲリッヒ・ブライ"」
言葉が、自然と頭に浮かんできた。
憎悪に染まる瞳が妖しく光り、突き出した手元には二丁の拳銃が握られていた。
抱いたことのない殺意の衝動。
行き場の無い怒りも、こうして悪食鬼に向けることで少しだけ紛らわせる。
「死ね――ッ」
熱を帯びた体と対照的に、声色は震えるほどに凍て付いていた。
カチャリ、と引き金の音が静寂の中に際立って――爆ぜる。
両手に握られた二丁の拳銃――エーゲリッヒ・ブライは、銃口から眩く蒼い光を放つ。
撃ち出された弾丸は閃光となって走り、悪食鬼の脇腹を穿った。
「死ね、死ね――ッ」
震える指で何度も引き金を引く。
虫の一匹を潰すのさえ躊躇ってしまうような少女が、激情に駆られ命を刈り取る。
力を解放した高揚感が心地良かった。
これを"元凶"に向けられたなら、どれほどの快感を得られるのだろうか。
だが、まだ尚早だ。
この力を十全に使いこなせるようにならなければ、確実に殺すには至らないだろう。
思い上がって返り討ちに遭うことは避けたい。
「……ッ」
酷い頭痛が襲う。
無理をしすぎたのだろうか。
クロガネの足元では、原型を留めていない肉塊が横たわっている。
生き永らえた喜びよりも、初めて命を奪ったことへの不快感が強かった。
この光景にも慣れなければならない。
消耗が酷く、視界が歪む。
膝を突いて耐えるも意識を保つだけでやっとの状況だった。
『――機動試験終了。実験体を速やかに回収し、戦闘データ解析に移行せよ』
兵士たちがドアを開けて入ってくる。
そして、クロガネの首輪に再び鎖を繋いだ。
――あぁ、またか。
諦念は無い。
絶望に抱かれ嗚咽するほど優しく在る必要は無い。
クロガネは酷い頭痛に歯を噛み締めて耐えつつ、鋭い眼光で兵士を睨み付ける。
今はまだ、その時ではないと理解していた。
力の行使による消耗が激しく、意識を保つことすら危うい。
薄らいでいく視界の中、魂に刻み込むように繰り返し復讐を誓った。
File:『機式』エーゲリッヒ・ブライ
クロガネの魔力によって生成された銃。
弾薬には直接魔力を用いるが、実弾を装填することで消耗を抑えることも可能。