286話
一帯のエーテルが激しく揺さぶられる。
目眩を引き起こすほどの歪みが空間を駆け抜け、視界を捻じ曲げるような実体のない波が広がる。
そこに物理的な破壊は伴わない。
ただ、存在するあらゆる生命の"魂"を撫でるように通り抜けただけ。
「……っ」
酷い感覚だ。
耐え難いほどの頭痛や酩酊を強制的に引き起こして、ノイズはやがて消え去った。
エーテルに耐性のある魔女でさえ影響を受けてしまう。
後方にいたカルロと真兎は気を失ってその場に崩れ落ちてしまった。
その隣では、目を回して座り込む色差魔の姿もある。
「あぁ? なんだ、今のは」
幾分か怯んだ様子を見せつつも、アダムは銃を構えた状態で佇んでいる。
ノイズを察知すると同時に死渦の弾を足元に放ったらしい。
周囲に特級対魔弾のエーテルを発生させることで、空間の捻れを発生させなかったらしい。
クロガネも同様の状態だ。
常時発動している『探知』によっていち早く異変を察知して、咄嗟に『破壊』の魔力を周囲に放出して身を守った。
仲間に知らせるために言葉を発するほどの猶予もなかったくらいだ。
アダムはその変化に気付いて似たような手段を用いたのだろう。
死渦の魔力を浴びることもかなり危険な行為ではあるが、使い慣れている武器というだけあって多少は耐性が付いているようだ。
敵味方含め全体の戦況を細かく観察している彼を恐ろしく思いつつも、継戦可能な状態なのは頼もしい。
とはいえ、こちらの優位は失われてしまった。
これほどの好機を見逃すはずがなく、
「……チッ」
クロガネは舌打つ。
どうやらディーナは、その隙を利用して逃げてしまったようだ。
もしあの場で攻勢に出られてたら対処できたか怪しい状況だった。
クロガネもアダムも、ディーナに対して持っていた"一手"を身を守ることに用いてしまったからだ。
そうなれば彼女が次の一手を握ることになる。
二人の内どちらかが標的となり、深手を負うか最悪命を落としたかもしれない。
「あうぁ~…………って、あれっ?」
ノイズを受けて座り込んでいた色差魔が意識を取り戻す。
すぐに立ち上がって周囲を確認するも、既に敵の姿はない。
「……どれくらい寝てた?」
「十秒くらい」
数える分には一瞬だろう。
だが、大罪級の魔女でさえそれほど大きな隙を作ってしまう。
「一体何が起きた?」
「分からない……けど」
――嫌な予感がする。
――ここまで得たピースが、都合の悪い形に組み上がっていく。
魔人や悪魔堕ち――その出現を示すエーテルの揺らぎ。
だが、これほどのものは感じたことがない。
フィルツェ商業区内での事件を利用するために、軍務局は何を仕掛けていたのか。
「――『探知』」
一帯を駆け抜けた激しいノイズ。
その発生源は容易く見つけることができた。
魔法省と堕の円環の魔女――雷帝と火輪が衝突していた付近だ。
そこには莫大なエーテルの反応が二つあったはずだったが、
「……ッ」
思わず息を呑む。
その内の一つが、異常な魔力反応を示していた。
◆◇◆◇◆
――フィルツェ商業区、エルバレーノ四番街。
激しい衝突が続いている区画。
魔法省側には雷帝を筆頭に登録魔女たちが、堕の円環側には火輪の率いる無法魔女たちが集っていた。
「この、ちょこまかと……ッ」
炎剣を振るいながら火輪が吠える。
近接戦闘を得意とする彼女だが、素早い動きで距離を取り続ける雷帝を相手に攻めあぐねていた。
距離が開けば魔法を使う隙を与えてしまうが、無理やりに近付こうとしても手痛い反撃を受けてしまう。
「動きが鈍くなっているな?」
「ッ、魔法省に飼い慣らされた負け犬の分際で――」
蓄積していくダメージに焦れて、火輪が手札を一つ切る。
炎剣を高々と翳し上げる。
その身から膨大な魔力が立ち昇っていた。
溢れるように紅い魔力が輝いて――"空"を抉じ開ける。
「塵芥も残さないから――『炎獄門』」
上空に生み出された巨大な空間の裂け目。
その奥から極大の炎が噴き出して、雷帝に襲い掛かる。
その直前に、
「――『雷装』」
紫電を身に纏って、人差し指を空に突き出す。
「――『降雷裂波』」
轟音と共に視界が激しく明滅する。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
避雷針のように立てた指先に空から紫電が降ってきた。
そこに複雑な技術は何もない。
ただ、圧倒的な魔力差で、火輪の生み出した『炎獄門』を消し飛ばしてしまった。
人々から恐れられている凶悪な力を持つ魔女。
一人は裏懺悔、もう一人はアグニ・グラ。
そしてもう一人は――。
「雷帝……ッ」
常軌を逸した力。
同じ戦慄級の中でも別格と呼ぶべき三角の内の一つ。
裏社会に生きる者なら、誰もが彼女の名を知っている。
悔しいが、一対一では分が悪い。
今はプライドよりも優先すべきことがある。
そう思い、堕の円環の魔女たちに合図を出す。
この近辺には大罪級の魔女も多く集まっている。
雷帝を強者だと認めた上で、数の優位を使ってでも仕留めなければならないと考えていた。
異変に気付いたのは、その直後だった。
「……新手か」
雷帝が呟く。
決して無視できない力を持つ者が現れた。
嫌な波長の魔力を宿して、ノイズのようなものと共に。
火輪もその存在に対して臨戦態勢に入っている。
つまらない演技などではなく、目の前の相手を敵として認識した様子だ。
「魔女が~、ひとり、ふたり……」
蒼い目を左右に動かして、少女が笑みを浮かべる。
「ふたり……えっと、ふたり? ふたり?」
三又の尾を揺らして、一本ずつ雷帝と火輪に向けられている。
残りの一本を揺らしながら首を傾げていた。
「……あ」
首をぐるりと回して、少女が振り返る。
火輪の合図に呼び集められた等級の高い無法魔女たち――上等な素体だ。
まずい――そんな自身の直感に従って火輪が攻撃を仕掛ける。
炎剣を構えて駆け出すと同時に、
「――ッぁ」
腹部に何かが突き刺さる。
先ほどまで少女の近くで揺らめいていたはずの尾が、目で追えないほどの速度で火輪を穿っていた。