276話
フィルツェ商業区はガレット・デ・ロワ――アダムが牛耳るシマだ。
様々な施設が立ち並んでいる大通りも、彼の庇護下に置かれるという名目で管理されている。
裏社会に生きる者であれば決して手出しすることはない。
この世の悪全てを体現するような存在。
倫理も道徳も常識も産まれる前に捨ててきたような彼に対話を試みようとするのは無謀だ。
「魔法省が犯罪組織に気を利かせるって?」
馬鹿馬鹿しい話だとクロガネは吐き捨てる。
ラプラスシステムとの連携によって多くのシンジケートを潰してきたというのに、今更になって刺激したくないなどと言うのはおかしな話だ。
犯罪者の根絶を目指すヘクセラの方針ではない。
一人で接触してきたのもそうだが、フィルツェ商業区の問題を速やかに解消しようとしているのもカラギの独断によるものだろう。
何を企んでいるのか。
問い詰めるように、銃を向けたまま歩み寄っていく。
「まぁ落ち着け。お前たちにデメリットはないだろう」
カラギの言う通り、状況的に考えると断る理由はない。
負傷者しているカルロに無茶をさせるよりも安全な策で、かつカラギに対しても貸しを作れる。
だが、それは表向きの話だ。
「信用を得たいなら、先に隠し事を白状した方がいい」
堕の円環のみを追い詰め、ガレット・デ・ロワには手を出さない。
そして、カラミティと敵対することは避ける。
「何の目的があってこの場に来たの?」
再び問い掛ける。
ここで先ほどまでと同じ建前を話すようであれば相手をする価値はない。
それこそすぐに殺してしまって構わない。
「やはり、一筋縄ではいかないようだな」
カラギは観念した様子で嘆息する。
簡単に説得できる相手ではないと思い知ったようだ。
これまで提示してきた条件も、武装を全て解除していることも嘘偽りのない真実だ。
だが、そうすることで彼が得られる"利益"について言及しなければ、どれだけ旨い話でもクロガネは呑まない。
「この場で明かせる範囲には限りが――」
「黙って」
カラギの言葉を遮って、クロガネが『探知』の精度を上げる。
こちらに向かってくる大型の輸送車両が一台。
「それで、時間稼ぎは済んだ?」
「まさか!」
カラギが慌てて否定するも、直後に通信が入る。
『カラギ主任、援護に向かいます!』
「いや、こっちは何も問題は起きていない。君たちは雷帝の援護に向かいなさい」
『……無法魔女に脅されているんですね?』
こちらの存在を把握しているらしい。
身内に真偽官でもいれば嘘を暴けるかもしれないが、カラギは表情から意図が読めないタイプの人間だ。
このやり取りも茶番と疑ってもいいくらいだ。
「まったく脅されてなどいないから来るな。これは命令だ」
『ハクアが危険因子の気配を感じ取っているので。主任の言葉でも聞けません』
宣言してすぐに通信が切れてしまう。
説得の余地は一切なかった。
「あぁ、クソ。機動予備隊か……予定が狂った」
カラギは困惑した様子だった。
「……"アレ"に索敵系の能力は無いと聞いていたんだがな。やはりあの男は信用ならん」
その言葉が本心かどうかは不明だ。
とはいえ、ハクア――原初の魔女の使徒について持ち出されると、こちらの居場所が割れてしまった理由も頷ける。
気配を感じ取って仕向けられたのだろう。
遺物によってパスが繋がっている状態では、原初の魔女からの指示には逆らえない。
断れば、以前のクロガネのように何らかのペナルティを科されかねない。
「それで、機動予備隊は止められるの?」
「私の無事を確認できればミツルギ君たちは手を止める……はずだ」
確信はない。
同じ相手を二度も取り逃がしてしまうとなれば、機動予備隊からも反発や疑心を抱かれかねない。
それはカラギにとって不利益だ。
いずれにしても、この場に駆け付けてしまうことは避けられない。
交渉でどうにか場を収められるならそうしたいのがカラギの本心だったが、
「交戦準備――」
クロガネが合図を出し、色差魔たちが臨戦態勢に入る。
こうなってしまえば話し合いの余地はない。
彼が目的を持って接触してきたことは明らかだが、これ以上続けてもリスクでしかない。
機動予備隊には使徒がいる。
あまり関わりたくない相手だが、原初の魔女に唆されて正確な位置まで把握されてしまっているらしい。
もし座標情報を共有されてしまえば、より多くの増援も考えられる。
「……待って」
輸送車両に高速で接近する反応があった。
明らかに魔法省側ではない、敵意を持った存在。
直後、近くで巨大な爆発が発生する。
先ほどドローンの反応が消失した時と同じものだ。
その余波でビリビリと大気中のエーテルが震えていた。
堕の円環の主戦力と思われる魔女だろう。
先ほど映像で見た"エーテル干渉"を操って、派手な爆発を引き起こしたらしい。
隊員たちの生命反応に異常はない。
だがESSシールドを搭載した輸送車両は、役割を果たせないほど大破している。
周辺の建物が倒壊して、壁のように周囲を塞いでいた。
――逃げ道を完全に塞いでいる。
それはつまり、自分が狩る側の存在だと確信しているということだ。
人体実験と機動試験によって生み出された精鋭部隊が相手だとしても揺るがない。
ラプラスシステムに捕捉されることを警戒もせず、堂々と強者として振る舞っている。
「急がないと殺されるかもね」
興味なさそうに呟く。
クロガネにとって捜査官の生き死になどはどうでもいいことだ。
それこそ、迂闊に手出しをできない原初の魔女の使徒を消してくれるならありがたいくらいだ。
だが、カラギはそうもいかない。
「あー、ゾーリア商業区で酒の旨い飲み屋はないか?」
「仔山羊の縊り亭」
「通わせてもらおう。見かけたら声をかけてくれ」
気が向いたら話の続きをしたい。
それだけこの交渉に本気なのだろう。
カラギはそう告げると、爆発の発生源に向かって駆け出した。
File:仔山羊の縊り亭
元アラバ・カルテルの営む飲み屋。
香辛料の効いた肉料理と酒を提供している肉バルで、価格帯はやや高め。
立地がゾーリア商業区というだけあって喧嘩の絶えない飲み屋だが、カラミティ直轄店であるため損害を出すような荒事はほとんど起こらない。