267話
「はぁー、さっぱりしたー」
シャワーを終えて、独り言を呟きながら体を拭く。
クロガネが急に飛び出していったため、セーフハウスには色差魔が一人きりだった。
誰もいないと、この部屋は物々しさと寂しさしか感じられない。
「……」
コンクリートに残された弾痕は少なくない。
複数用意している隠れ家で、これだけ穴が空いているとなれば毎晩のようにうなされているはずだ。
何が彼女をそんなにも苛むのだろうか。
CEMの人体実験は想像を絶する地獄なのだろう。
特にクロガネは、あのフォンド博士が直々に研究を行っていた人造魔女だ。
初めて出会った時には既に戦闘技術も完成されていた――それだけの死線を無理矢理に潜らせられ続けたと考えるのが自然だろう。
銃撃と格闘術を組み合わせ、堂々と敵の前に姿を見せて制圧する強者の戦い方。
これは一朝一夕で生み出せるような戦闘スタイルではない。
さらに様々な銃を持ち替えながら戦うため単調というわけでもない。
「はぁ……かっこいい……」
思わずため息が出てしまうほどに。
近くにいるだけでドキドキしてしまう魅力があった。
無法魔女としてのクロガネは、裏社会でも名が知れ渡る凄腕の殺し屋だ。
戦慄級という肩書きだけでなく技量も伴っている。
裏懺悔やアダムから気に入られる"何か"を持っていて、それが魅力となって傘下に収まる者も出始めている。
――"カラミティ"
新興ながら、ディープタウンへの出入りを許可された数少ない組織となっている。
未だ単独行動を貫いている色差魔は入り方さえ知らない場所だ。
悪党にとって天国とも地獄とも呼ばれているらしいが、その実態は内部の者にしか分からない。
だが、ディープタウンの主に認められたという事実は他のシンジケートを萎縮させるほどの意味を持つ。
これは生半可な悪党たちでは太刀打ちできない"本物の悪"であるという証明だ。
迂闊に手を出せば、組織が壊滅するほど惨たらしい報復を受けることになる。
「いいなー……」
正式に幹部として迎えられたのは三名。
その中には、同じ無法魔女である屍姫がいる。
自分が選ばれなかったと思うと、少しだけ寂しい気分になってしまう。
ベッドに寝転がって、毛布代わりにクロガネのコートを手繰り寄せる。
包まっていると先ほどホテル前で抱えられた時のような安心感があった。
「落ち着く匂い……じゃないかも」
どちらかと言えば硝煙や砂埃の匂いだ。
仕事用の服なのだから当然と言えば当然だったが、色差魔はやや不満げな表情で目を瞑る。
「ふふ、ちょっとクロガネの匂いがするかも……ん?」
もぞもぞと潜り込んでいくと、ふと紙切れのようなものが内ポケットから出てきた。
紙の手帳のようだが、かなり使い古されている。
「……これって」
好奇心から中を開いてみると、見たこともない奇妙な文字が書かれていた。
丸みを帯びた簡素な文字から複雑に入り組んだ文字まで――日本語で記されたクロガネの手記だった。
当然、色差魔にはそれが読めない。
だがこれがクロガネ独自の暗号だとも思えない。
「暗号でメモする人もいるって聞くけど……こんな複雑なものをゼロから作るなんて、普通ないよね……?」
これが他の殺し屋などであれば分からなくもない。
しかし、常日頃から依頼を受けて飛び回っていたクロガネに、複雑な独自の言語を生み出すほどの時間があるとは考え難い。
CEMに実験サンプルとして扱われる以前、一体どんな生活をしていたのだろうか。
記憶の大部分は魔女として目覚めた際に失われている可能性が高い。
だが、クロガネが囚われていた研究所の主――フォンド博士ならば、彼女の過去を知っているのではないか。
敵対するには危険すぎる相手だ。
以前は裏懺悔という後ろ盾があったからこそ研究所に殴り込めた。
もし調査をするなら、極めて大きなリスクを抱えることになる。
興味本位で詮索すべき事柄ではない。
そう思いつつも、クロガネ自身が知りたがっている可能性も――。
「……っ」
複数の足音がセーフハウスに近付いてきた。
色差魔は慌てて手帳をコートの内ポケットに戻そうとする。
「いっちばーん――って、あーっ!」
「ぴゃっ……な、なにか?」
最初に入ってきた真兎が声を上げる。
なんとか手帳を戻すと、色差魔は誤魔化すように尋ねる。
続いて、クロガネが負傷したカルロに肩を貸しながら入ってきた。
「クロガネさん、大変です! 脱ぎたてのコートを使って色差魔が致してますよ!」
「してないって!」
慌てて否定する。
さすがに変態じみたことをしていると勘違いされたくなかったが、コートを漁っていたと思われるよりはマシかと悩んでしまう。
「……どうでもいいけど、そこ空けてくれる?」
クロガネは特に気にした様子もなくベッドを指差す。
慌てて場所を空けると、負傷したカルロをベッドに横たえる。
「あー、俺生きてるわ……」
安堵したようにゆっくりと息を吐く。
救援がなければ助からない状況だった。
もちろん、彼なりに機転を利かせれば切り抜けられなくもなかったが、
「カルロさんも無事みたいでよかったです」
「ズタボロだけどな……」
「え、それはもとからじゃないですか?」
そう言ってクスリと笑う。
真兎も安心して、普段の調子に戻っている。
救援がなければ、彼女を生かしたままとはいかなかっただろう。
カルロの生存力の高さは、あくまで彼個人に限った範囲でしか発揮できない。
それに不確定要素を抱えながら動くには敵が多すぎた。
同行していた部下の大半を失ってしまった。
下っ端とはいえガレット・デ・ロワに所属しているのだ。
裏社会で生きて裏社会で死ぬ。
唐突に人生が終わることだって覚悟の上。
無念だろうが悪党などそういうものだ。
そして、悪党になりきれていない真兎はまだ死なせるべきではない。
彼女を預かることになった、カルロなりの信念がそこにあった。