261話
魔法省による検問が始まってから三時間が経過する。
既に午前零時を回っているが、未だにフィルツェ商業区は騒がしかった。
魔法省の捜査によって潜伏していた堕の円環のメンバーが炙り出され始めている。
全員が魔女という特殊な組織ではあるが、さすがに数の暴力には敵わない。
次々と動員される登録魔女や捜査官たちによって、徐々に追い詰められ始めていた。
あれだけ大暴れしていたはずの火輪が姿を見せない。
転移系統の能力者がいる可能性も否めないが、これだけの騒動が起きていて戦慄級の魔女が沈黙しているのは不自然だ。
今は様子見に徹するべきだろう。
状況が不明瞭なままでは動くべきではない。
機即座に動けるように準備をしつつ、機を窺うしかない。
装備のメンテナンスをしていると、横から色差魔が顔を覗かせる。
「はい、これ」
一杯のコーヒーと、小皿には乾パンとチョコレートが並んでいる。
作業に集中している間に用意していたらしい。
「休憩挟まないと疲れちゃうよ」
「……」
感謝の言葉は、どこか奥の方で引っ掛かって出てこない。
それがどうしようもなく不愉快だった。
「……はぁ」
気を張りすぎているのだろうか。
この世界に対して抱くものが憎悪だけではなくなっている――それは否定しようのない事実だ。
物事が鮮明に見えてくるほどに、何を憎めばいいのか分からなくなってしまう。
不要な感情のはずだ。
ただ、元の世界に戻ることだけを考えていればいい。
そのはずだというのに、自らの都合で命を捨てさせることに抵抗を感じるようになってしまう。
研究施設から逃れてかなりの時間が経過している。
感情を抑圧していたはずのエルバーム剥薬も、とうに効果は切れているのだろう。
「色差魔は……」
「愛称で呼んで」
グイッと顔を近づけてきて、真剣な表情で言う。
なぜだか普段と違う様子だ。
「……シキは、私がどういう人間に見える?」
冷徹な殺し屋か、利己的な悪党か。
自らの目的のために多くの命を奪ってきて、心まで裏社会に染まっている。
純粋すぎる彼女であれば、改めてその事実を思い知らせてくれるだろうと期待して、
「うーん……正直、よくわからないかな」
曖昧な返答に、クロガネは嘆息する。
だが、色差魔はそのまま続ける。
「でも、無理してるのはわかるよ」
殺人狂でもなければ、極悪人というわけでもない。
必要だから命を奪っているだけで、そこに抵抗を感じている暇もない。
だが、色差魔にはクロガネの目的がわからない。
自らの事情を明かそうとしないから、その動機を知ることもできない。
どういう人間か形容するために必要な情報が不足している。
「……そう」
裏社会を渡り歩く無法魔女ではあるものの、色差魔は基本的に善人だ。
人を虐げることもできない。
酷い目に遭っている者がいれば心を痛めてしまう。
だからカラミティには勧誘しなかった。
身近に置いてしまっては、きっと今以上に見透かされかねない。
ここで見当違いのことを言うようであれば、もう少し信用してもよかったかもしれない。
だが彼女はCEMに捕らわれていたことまで知っている。
自分の弱みを握られているようなものだ。
「あのさ、もしクロガネがよかったら……話してほしいな」
甘い言葉だ。
これを警戒して距離を取っていた。
話す理由がない。
元の世界に帰るために、一人の無法魔女に何ができるというのか。
これだけ徹底的に行動しても未だに手掛かりの一つも掴めていない。
真相を追い求めるほど謎が深まっていく。
全てを解き明かせるほどの頭脳は持ち合わせていない。
そもそも、元の世界に帰ったところで居場所はあるのだろうか。
召喚されてからかなりの月日を過ごしてきた。
たかだか一人の少女が消えただけのことで、既に空席は埋まっているだろう。
これだけ血を浴びて汚れきってしまったというのに。
普通の少女として暮らしていけるはずがない。
家族の前に立って、以前のような笑顔を"作れる"だろうか。
そもそもの話。
「それとも、覚えてない……とか?」
「……ッ」
後天的に魔女に目覚めた者は記憶の大半を失ってしまう。
エーテルによって存在が変質してしまうからだ。
人体実験によって生み出された人造魔女とはいえ、その考えに行き着くのは不自然ではない。
魔女として目覚めた時点で記憶が大きく欠落してしまっている。
自分の名前も思い出せないほどに。
それこそ、両親の顔だって分からない。
今更戻ったところで……と、そう思ってしまう自分も少なからず存在していた。
「……詮索しないで」
殺気を込めて拒む。
目的を失ってしまえば原動力がなくなってしまう。
きっと元の世界に戻れば、捜索願が出ていて見つけてもらえるはずだ。
記憶喪失は事実なのだから、ゆっくり療養しながら過ごせばいい。
らしくない動揺した姿を見て、色差魔も予想が外れているわけではないのだと察する。
詳しい事情までは分からない。
それでも簡単に解決できるような問題ではないのは確からしい。
「でも大丈夫、今夜はあたしが全部忘れさせてあげ――ひゃっ」
差し出した手を強く引かれてそのまま抱き留められる。
すぐ間近で見つめられ、色差魔は恥ずかしくなって視線を逸らす。
「どう忘れさせてくれるの?」
キスだけで沸騰しちゃうのに……と、クロガネが意地悪な笑みを浮かべる。
そっと手を這わせるだけで悶えてしまうような少女に、何ができるというのか。
こうして抵抗できず弄ばれているだけ。
あわあわと顔を赤くしているだけの色差魔を離して嘆息する。
他人に頼ると弱くなってしまう。
利用するくらいのつもりで丁度良い。
そうでなければ、何かあったときに不要に傷付いてしまいかねない。
「……そろそろ、今日あったことを聞かせてくれる?」
色差魔を落ち着かせ、クロガネは本題に入る。