259話
「……嘘でしょ」
色差魔は前方に視線を戻す。
これからクロガネと会うはずだったホテルが、先ほどの爆発で酷い有様になっていた。
エントランスは激しく燃え盛り、宿泊客たちが混乱状態になりながら逃げ出してくる。
ホテルのスタッフたちが避難誘導をしているが、建物は今にも崩れそうで危険な状況だ。
「こんなことって……」
色差魔はその光景を前に呆然と立ち尽くす。
あまりにも酷い所業だ。
悲しみが怒りへと変わっていき、溢れ出した殺気に身を委ねて再び振り返る。
悠然と佇む戦慄級の魔女。
燃え盛る炎のような赤いドレスに身を包み、周囲に炎剣を侍らせて魔力を揺らめかせている。
対峙するだけで呑み込まれてしまいそうなほどの存在感を放っていた。
「残念。仕留めそこねたようね」
戦慄級の中でも上澄みだろう。
戦闘に特化した能力を持ち、さらに馬鹿げた量の魔力を保有している。
そんな彼女の視線は、よくよく見ればこちらには向いていない。
色差魔から数メートルほど離れた場所。
火輪が対峙しているのは、別件の捜査に赴いていた登録魔女。
「……フィルツェ商業区に潜んでいたか」
綺羅びやかな長い金髪を輝かせ。
特務部魔女管理課執行官――戦慄級『雷帝』が、手元から雷を迸らせながら身構える。
「苦しまないよう一撃で終わらせてあげようと思っていたのに」
火輪が炎剣の切っ先を雷帝に向ける。
彼女が命じれば、宙に浮かぶ全ての炎剣が襲い掛かることになる。
「そんな弱火でどうするつもりだ?」
強気な表情で挑発する。
雷を支配する彼女の能力は、目の前の炎剣に対して引けを取らない。
元は無法魔女として名を馳せていた人物だ。
魔女としての格も殺し合いの技術も兼ね備えている正真正銘の強者。
そんな二人が、今まさに全力でぶつかり合おうという時――。
「絶対に許さないんだからっ!」
魔法による隠蔽を解除して色差魔が手を翳す。
唐突に現れた第三者の、それも大罪級の力量による介入は想定できないはず。
「『色錯世か』――むぐっ!?」
魔法の発動を阻むように後ろから手が伸びてきて、色差魔の口元を押さえ込み建物の影に引きずり込んだ。
強力な反魔力によって『色錯世界』もキャンセルされてしまう。
「む、むぐぐーっ!」
「静かにして」
耳元で聞こえた声に、色差魔がはっと気付いて抵抗をやめる。
抱き抱えられる形で死角に隠れた。
「……大丈夫、気付かれてない」
大通りの様子を窺い、クロガネが呟く。
戦慄級同士の戦闘に巻き込まれては面倒だ。
無法魔女の中でも最強の一角とされていた戦慄級『雷帝』が魔法省側に付いている。
なぜそれが裏社会に大きな影響を与えたのか、実際に目の当たりにして思い知る。
「その程度で通用すると思っているのか?」
圧倒的な魔力保有量と、雷を支配する万能の力。
その手を翳せば雷鳴が轟いて一帯を瞬く間に焼き尽くす。
その身に宿せば雷と同調して視認不可能な速度での移動を可能とする。
対峙している火輪も相当の手練れのようで、雷帝の苛烈な攻撃に遅れを取っていない。
まだ互いに余力を多く残している。
だが、同じ戦慄級でも雷帝の方が魔法の撃ち合いは上手のように見えた。
雷帝と真正面から交戦するのは避けるべきだ。
彼女だけでも厄介だというのに、さらに魔法省の戦力も上乗せされるのだ。
このテロ騒ぎは火輪――『堕の円環』が計画していたもののようだが、少なくとも『探知』に反応する範囲の戦力では雷帝には通用しないだろう。
圧倒的な個という意味では、カラギや機動予備隊よりもずっとユーガスマの後釜らしく思える。
あれ程の実力者が易々と屈服するとは考え難いが、魔法省に従うメリットでもあるのだろうか。
この規模の争いに色差魔は介入しようとしていた。
命知らずにもほどがあるが、自分にも思い至らないような勝算があったのだろうか……と、クロガネは抱き抱えている色差魔に視線を戻す。
「落ち着いた?」
「も、もちろん!」
そわそわしながら色差魔が頷く。
とりあえず、また飛び出していくような様子はなさそうだ。
運悪く他者の争いに巻き込まれてしまった。
合流場所のホテルは既に酷い惨状で、この様子では倒壊は免れないだろう。
「……」
フィルツェ商業区の最高級クラスのホテルとなれば、被害総額は甚大なものになるだろう。
そして不運なことに、これはガレット・デ・ロワが経営している――即ちアダムの所有物だ。
彼は必ず報復する。
何よりも残虐非道な手段で、徹底的に潰しにかかることだろう。
相手が戦慄級の無法魔女であろうと彼にとっては些細な問題だ。
「……場所を移す」
この場に留まっていては危険だ。
争い事に巻き込まれる前に身を隠すべきだろう。
既に今回のテロ行為は観測されていて、周辺道路は魔法省の検問が敷かれることはずだ。
そうなれば安全に脱出するルートが失われてしまう。
雷帝との交戦は避けられないだろう。
色差魔も手練れの魔女ではあるが、この状況で連れ回すには不安が残る。
無闇に危険を冒すよりも安全策を取るべきだ。
幸いにも、この近くにセーフハウスを用意している。
万が一の逃亡用のためだが、今は遠くに移動するより身を潜めた方がいい。
銃火器や食料も備蓄されているため検問が長引いても安心だ。