257話
「……ちょっとだけ危なかったわね」
それからしばらく移動を続け、色差魔はようやく足を止める。
あれから追手が仕向けられた様子はない。
逃げ切ったと考えていいだろう。
「はぁ……」
魔法省の動きが活発化してきている。
特に無法魔女の捕縛に関しては以前の比ではない。
ラプラスシステムによる一望監視制完全管理社会の実現。
何らかの煌学技術を用いて社会全体を監視しており、どこかに隠れ潜んでいても検出され捜査官を派遣されてしまう。
この政策は危険すぎる……と、色差魔は顔をしかめる。
無法魔女に限った話ではない。
もし統一政府が望んだなら全人類のプライバシーは失われ、僅かでも逸脱した行動を見せれば身柄を拘束されかねない。
行き過ぎた社会秩序。
たとえ異を唱える者がいたとして既に手遅れだ。
軽く壁に凭れて体を休めつつ、回復に努める。
仕方がないとはいえ先ほどの戦闘では魔力を使いすぎてしまった。
このまま間髪入れずに戦闘になってしまったら魔力欠乏に陥りかねない。
「……ん?」
路地裏にノイズが走る。
大気中のエーテルが異常を起こして、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
微かな違和感が、徐々に鮮明になっていき――。
「――ッ!?」
殺気を感じてその場から飛び退く。
直後、目の前の空間を"何か"が穿っていった。
硬質な尾――それも三本ある。
アスファルトを容易に貫通する威力を持ち、さらに視認が困難ほどの速度だ。
「な、魔物!?」
それも相当上位の化け物だ。
なぜこんな市街地に――と、困惑しつつ襲撃者に視線を向ける。
そして、すぐに自分の判断が間違っていたことに気付く。
「なによ、あれ……」
魔力に親和性の高い彼女だからこそ、それが魔女でも魔物でもないと気付けた。
「あははっ!」
前方でゆらゆらと佇む人外――プロトが無邪気に嗤う。
三叉の尾を揺らしながら獲物を見定めるようにこちらを見つめていた。
逃げたところで追い付かれて終わりだ。
表通りまで辿り着けば事情は変わってくるが、捜査官から逃れるために深入りしすぎてしまった。
単独で依頼を遂行していたため救援も期待できない。
殺気が一気に膨れ上がり――色差魔の真横を穿つ。
「……」
どうやら『色錯』は通用するらしい。
効果を反魔力で減衰されるような様子もない。
恐らく自分とは異なる原理でエーテルを身に宿しているのだろう。
魔女や魔物よりも一歩先にいる生物で、より深く"エーテルに馴染んでいる"ように見える。
そして、その総量は明らかに常軌を逸していることも。
「殺せなかった? 殺せ? 殺す? 殺せる?」
左右に首を傾げながら言葉を繰り返す。
爛々と蒼い瞳を輝かせ、プロトが地を蹴って駆け出す。
第六感が激しく警鐘を鳴らしている。
まともに殺り合っていい相手ではない。
魔法省など比較にならないほどの脅威を前にして、色差魔は即座に魔法を行使する。
「――『色錯世界』」
空間が滲む。
色彩が狂い始め、視界がブレるように震える。
地面と空の境界が溶け合って、上下の感覚さえ奪っていく。
そこに色差魔の姿はない。
逃走の足音は至るところから響いて、気配は無数に増えたように感じる。
距離を取って冷静に様子を窺っているのか。
殺気を滾らせて仕留めに来るのか。
時間を稼いで増援を呼ぶのか。
それとも既に逃げ出しているのか。
「つまんなーい」
プロトが呟く。
期待していたような、心躍る殺し合いはできなかった。
標的を取り逃がしたことをディーナに責められるかもしれない。
だが、それは彼女にとって大した問題ではない。
小難しい話をされたところで、脳を介さず反対の耳に抜けていくだけだ。
不服そうに彼女がその場を離れる頃には、色差魔もどうにか表通りまで辿り着いていた。
「はぁー、なんとか助かっ――」
直後、鼓膜が破れそうになるほどの爆発音が響く。
続いて人々の悲鳴と逃げ惑う者たちの慌ただしい足音が聞こえてきて、戸惑いつつ爆発した場所を探す。
「う~、耳が痛い」
耳を押さえながら視線を向ける。
どうやら通りに面しているビルが爆発したらしい。
ガスなどによる事故ではない。
燃え盛る建物の前には複数の魔力反応を感じられる。
無法魔女の集団によるテロ行為のようだ。
「えぇー……さすがに治安悪すぎでしょ」
自身も無法魔女であることなどすっかり忘れて呟く。
すぐに魔法省の車両がサイレンを鳴らしながら駆け付け、テロ集団を取り囲む。
先ほど色差魔を追いかけ回していた捜査班だった。
詩羽を無事に送り届けた後、事件発生を察知して急行したのだろう。
とはいえ、駆け付けるにしてもあまりにも早すぎる。
テロ集団はNeef-4も付けず堂々と魔力を揺らめかせているため、ラプラスシステムに検知されたのだろう。
しかし、その自信に見合った力を持っているようで――。
「平伏しなさい――『焔剣』」
灼熱が一帯を薙ぎ払う。
莫大な魔力によって形成された炎の刃が、逃げ遅れた一般市民を巻き込むように焼き払う。
執行官がESSシールドを展開するが、その一撃だけで破られてしまう。
凄まじい威力――どう見積もっても戦慄級相当で、その中でも特に攻撃に秀でている魔女のようだ。
他の無法魔女たちも手練れ揃いで、捜査班を圧倒していた。
「あれは……」
彼女たちが共通して"円環"のタトゥーを肩に入れていることに気付く
それは、ここ最近になって急激に勢力を伸ばしている反政府組織の一つ。
――堕の円環。
ラプラスシステムによる完全管理社会は魔女名簿登録を促進する一方で、テロ集団の増加にも繋がっている。
中でもこの組織は、所属する無法魔女の数が極めて多い。
他と違う点を挙げるならば、この堕の円環は魔女による魔女のためだけの組織ということだ。
人間を殺すことを厭わない過激派で、魔女解放運動の果てに新たな政府設立を目論んでいると噂されていた。
「ま、あたしには関係ないわね」
そう呟いて、色差魔は肩を竦める。
これだけ大きな事件になれば、魔法省の特務部が出張ってくる可能性が高い。
巻き添えを食らわない内にこの場から離れた方がいい。
と、歩き出そうとして。
「……ん?」
見知った人物の魔力反応を感じて足を止める。
だが、視線を向けてみるもそれらしい人影は見当たらない。
その方向にあるのは、新たに増援に来た魔法省の輸送車両くらいだ。
そこからクロガネとよく似た波長の魔力を持つ白髪の少女が降りてきて、色差魔は残念そうに視線を外す。
「はぁー、人違いか……」
堕の円環と魔法省の交戦が激しさを増していく。
巻き込まれないよう足早に、色差魔は夜ご飯の献立を考えながらその場を後にする。