256話
「――っはぁ、はぁ」
荒い呼吸と足音が路地裏に響いていた。
先頭をあわあわと駆ける少女――色差魔は、後方を振り返りつつ必死に距離を離そうと速度を上げる。
後方から追い掛けて来ているのは、黒スーツに赤の腕章を付けた男――魔法省の執行官だ。
CEMの施術によって強化された肉体と最新式の対魔武器。
これによって、人間でも魔女に通用する力を手に入れられる。
さらに五人の捜査官が付いてきている。
並の無法魔女が相手なら十分な戦力だろう。
「止まれッ――」
執行官が銃を撃つ。
狙いは極めて正確で、色差魔の肩を捉え――。
「――はっずれ~!」
実際には虚空を撃ち抜いただけ。
五感を狂わせる魔法によって、その狙いをズラしていた。
現状ではそれがやっとの状況だった。
ラプラスシステムによる監視下において、強力な魔法の行使は命取りとなる。
彼女の魔法『色錯』はシステムから感知されにくい幻覚魔法だ。
Neef-4が無くとも、自前の魔法で十分以上に活動することができる。
とはいえ、今は執行官を対象にしなければならないためシステムに検知されないよう警戒する必要があった。
だが、色差魔も数々の依頼をこなしてきた無法魔女だ。
こういった場合も想定している。
「このあたしが、やられっぱなしだと思わないでよねっ――」
懐から取り出したのは、二丁の改造拳銃。
対魔武器の携帯はラプラスシステムに捕捉されるリスクがあるため、こうした実弾銃の方が今は有用だ。
華麗な銃捌き――を意識しているであろう動きで、執行官に向けて乱射する。
技術の欠片もない見栄えだけの銃撃。
とはいえ、さすがに真正面から突っ込んでいけるわけでもない。
足止めには十分だ。
その隙に『色錯』を再度発動して、自らが銃を撃ち続けているような錯覚を相手の視覚に与える。
これなら逃げ切れる――と、そんな期待を抱いた直後。
「――欺くことがお上手なようで」
色差魔の前方に一人の少女が降り立つ。
強大な魔力を感じる。
自分と同格の魔女だと、色差魔は足を止めて敵を見据える。
黒のスーツに緑の腕章――魔法省の真偽官だろう。
嘘偽りを見抜く能力を所有している登録魔女は、その等級に関わらず真偽官として運用される。
「……へえ、なかなかやるじゃない」
その中でも目の前の相手は別格だ。
制御しているとはいえ、この『色錯』を見抜けるほどの真偽官となれば大罪級はあるだろう。
「ま、あたしは純情だけどねっ!」
「……は?」
意味不明な宣言をしつつ色差魔が銃を構える。
真偽官の能力は厄介だが、逆に言えばそれ以外の魔法は使えない。
戦闘に用いられるのは対魔武器程度。
「壱式――"ヤミイロカグラ"起動」
《申請を確認――TWLMの起動を承認しました》
長柄の槍――刀身は幅広く、闇色に染まりきった薙刀だ。
魔法を持たない執行官が魔女と互角に渡り合えるようになる秘密兵器。
それを嘘偽りを見破る真偽官が持ったとするならば――。
「――ッ」
即座に銃を乱射する。
狙いは精密とまではいかないが、距離が開いていても何発か当てられる程度には練習している。
動きを阻害するようにバラ撒かれた弾丸を、ヤミイロカグラの刃が閃いて切り刻む。
「魔法省登録魔女真偽官『詩羽』――無法魔女の捕縛を開始します」
眼光鋭く、殺気で色差魔を射抜く。
相手の技量は本物だ。
「心を見透かしているってわけね」
「真偽官ですので。大人しく投降するようであれば、魔女名簿に登録するだけで済みますよ」
魔女名簿への登録は自由を奪われると同義だ。
魔法省の要請があれば出動する義務を与えられ、私生活の自由などないようなもの。
自由を守るためには詩羽を退けなければならない。
「そんな言葉に騙されるわけないでしょっ!」
色差魔は再び銃を乱射する。
真偽官相手に思考は筒抜けだ。
余計なことを考えている暇があるなら攻撃を仕掛けた方がいい。
だが、詩羽は被弾するであろう軌道の弾丸を狙って弾いている。
射撃時の微かな手応えまで読み取っているのだとすれば――。
「……ふぅ」
小さく息を吐いて、体をだらりと脱力させる。
銃口は詩羽に向けたままだったが、先程までとは明らかに違う点が一つ。
「……いったい何を」
詩羽は思わず尋ねてしまう。
殺し合いの場に相応しくない気の抜けた顔――ぽかんと呆けたような、どこか間抜けな顔をして色差魔が佇んでいる。
あまりにも無策な、何も考えていないような顔をして、
「――ッ!?」
乱雑にバラ撒かれた弾丸が詩羽の肩を穿つ。
狙いも何もあったものではない。
何も考えず、駄々をこねる子どものように銃を振り回しながら撃っただけ。
それでも心を読んでから動き始める真偽官には効果がないわけではない。
あとは運次第だ。
そう思っていたが、続く弾丸は躱されてしまう。
「舐められたものですね」
詩羽は薙刀を突き出すように構え、攻勢に転じる。
「やっ、やばいかも――」
真偽官としての能力が通用せずとも、磨き上げた技術とTWLMの性能によって斬り伏せる。
魔女としてだけでなく武芸者としても秀でているらしい。
内蔵された動力炉とパスを繋いでいるらしく、詩羽に多量のエーテルが供給されていた。
それを成し得た煌学技術に感心しつつも、同時に安全性には疑問が残る。
「ならっ――」
正攻法で敵うとは思えない。
色差魔は手を翳して、次なる魔法を行使する。
それは、彼女が用意している搦め手の内の一つ。
「くらいなさいっ――"行動阻害"」
色差魔の魔法が行使された直後、詩羽が何かに気付いたようにピタリと足を止める。
五感を狂わせる能力を応用した外道な技。
「どう、パンツがびしょ濡れになった気分は?」
「~~っ!?」
年頃の少女にとっては致命的な羞恥を与えられる。
当然、その感触も全て錯覚なのだが、それを無視して平然と動ける者はそういないだろう。
「ま、あたしにかかればこんなものね!」
色差魔は腕を組んで勝利を宣言する。
出力を抑えた小さな魔法の積み重ねだが、使い方次第では十分に通用する。
一度幻覚に呑み込んでしまえばこっちのものだ。
得意げな表情をして、さらに手を翳して次の魔法を準備していく。
動揺した心を揺さぶるように、視覚や聴覚にも影響を及ぼしていく。
より深く幻覚に呑み込んでいく。
さらに他者の視線を感じるように錯覚を与えると、
「あぅ、見ないで……」
詩羽が体を震わせて俯く。
顔を真っ赤にして、体を隠すためにTWLMも手放してしまった。
実際には何も起きていないが、詩羽の見ている世界では耐え難い羞恥を感じていることだろう。
藻掻くほど深く幻覚に支配されていく。
この状況で先ほどまでのような動きができるとは思えない。
恥ずかしそうに体を捩らせている姿は妙に艶めかしく、
「えっ、ちょ、ちょっと……うわぁ……」
色差魔も顔を真っ赤にして手で顔を覆う。
想像していたものより遥かに過激な幻覚を見ているらしい。
完全に術中に嵌まった詩羽は、何を思ったのか自分から下着を脱ぎ始めてしまった。
人通りのない路地裏とはいえ、誰かが偶然通りがかってしまう可能性もある。
このまま放置してしまっていいのだろうかと慌てていると、先ほどの執行官たちが幻覚を振り払って追い付いてきた。
「よかった! その子をお願い!」
対処を丸投げして走り出す。
さすがに詩羽を放置するわけにもいかないため、彼らも追いかけてくるようなこともなかった。