254話
「よーっす、裏懺悔ちゃんだぞ~」
にへらと笑みを浮かべてこちらに振り返る。
その緩んだ表情も呑気な声も普段通りのものだが、どこか雰囲気が違う。
「怖かったでしょ~。もう大丈夫だからねー」
子どもをあやすような口調で言う。
クロガネを助けに来たのだとアピールするように、裏懺悔は手をひらひらと振ってみせる。
その場に存在するだけで、何もせずとも一帯を掌握してしまうほどの魔女。
彼女と対等に渡り合える者などこの世界にはいない。
「……なぜここに」
テロメアは一挙一動を警戒しつつ呟く。
対峙するのは初めてらしい。
常軌を逸したエーテルを宿す魔女を、先程までのように"下等生物如き"とは侮れない。
統一政府が対処を放棄した無法魔女。
その正体は謎に包まれていて、能力も行動原理も全てが不明な生物。
そんな緊張感も一切無視して、裏懺悔は安堵したように胸を撫で下ろす。
「んー、今回は思ってたより早く見つけられたかな」
そう呟いて、ゆっくりと歩き出す。
身に纏っている殺気は本物だ。
どうやら好奇心で遊びに来ているわけではないらしい
「……全員退避」
通信機から構成員全体に発信する。
戦闘の余波に巻き込まれては命を落としかねない。
屍姫に視線を向けると、彼女も即座に行動に移る。
裏懺悔なら容易く捻じ伏せてくれる……と、そんな他力本願な考えは持っていない。
確かに彼女に投げれば解決してくれるだろう。
それで全てを委ねてしまえば、いずれどこかで後悔することになる。
何より――。
「手早く済ませないとね~」
今日の裏懺悔は妙に好戦的すぎる。
この引っ掛かりを見落としてはならない気がして――。
「させないッ」
プロトが声を上げる。
三叉の尾を地面や壁に突き立てて伸縮させ、不規則な軌道で距離を詰めて襲い掛かるが、
「はぁ~」
裏懺悔が大きくため息を吐く。
周囲のエーテルが微かに揺らぎ――何かしらの魔法が行使され、次の瞬間にはプロトの首元を片手で掴み上げていた。
「ん~ッ!」
苦しそうに呻きながら尾を突き出そうとするも、なぜか先程までのように伸縮せずダラリと垂れ下がっている。
「キミじゃないよ」
つまらなさそうに呟いて、裏懺悔が手元に魔力を集める。
喉元に凄まじいエネルギーが集束していることを感じ取り、プロトが焦ったように身を捻って抜け出そうとしている。
だが三叉の尾だけでなく四肢にも上手く力が入らない。
抵抗しようと蹴りつけてもびくともしない。
彼女が内包するエーテルさえ支配権を奪われてしまっているのだ。
それだけ裏懺悔の魔力が常軌を逸していることの証明で、
「邪魔しないでね」
溜め息混じりに呟くと同時に、プロトの頭部が吹き飛ぶ。
まるで勝負にならない。
裏懺悔は手に付着した血を不愉快そうに見つめ、テロメアに視線を移す。
「……ッ」
絶対的な力を持つ強者。
森羅万象を凌駕する莫大なエーテルに、不可解な現象を引き起こす詳細不明な能力。
戦慄級『裏懺悔』――彼女が動き出した時、その歩みを止められる者はいない。
その庇護下にある状況は確かに心強くはある。
しかし、自らの思考を放棄してまで、行動原理も不明な彼女についていくのも危険だ。
現に、裏懺悔は明確な目的を持ってテロメアを殺めようとしている。
それが今のクロガネにとってありがたい状況ではあるのは確かだ。
軍務局の存在は脅威であって、今後の目的に大きな支障となる。
だが、ふと思考が立ち止まる。
このまま本当に委ねていいのだろうか。
「さて、と~……」
一帯は裏懺悔の支配領域によって掌握されている。
そこには普段と違い、反魔力によって周囲を抑え込もうという意思が感じられる。
「キミは早めに処分しておかないとね~」
生かしておくと不都合がある。
そんな素振りを見せながら、徐ろに手を翳して――。
「――ッ!?」
テロメアの正面に展開されていた障壁が砕け散る。
そこには複雑な術理も何もない。
ただ、馬鹿げた量の魔力を込めて強引に破っただけだ。
「チッ――『記界ノ理』」
「無駄だよ」
魔法の発動が許されない。
反魔力による減衰は格の違いが大きければ大きいほど強力なものとなる。
即ち――。
「……化け物め」
決して埋めようのない、隔絶された差が存在している。
裏懺悔にとって他の存在は等しく脆弱な生き物でしかない。
吹けば飛び、突付けば潰れる程度。
だから彼女の生命が脅かされることはない。
傲慢な一等市民の集まりである統一政府でさえ対処を諦めてしまったほどだ。
クロガネから見て、テロメアは明らかに格上だ。
恐らく、ユーガスマと比べてもさらに上を行くだろう。
そんな得体の知れない存在を前にして、裏懺悔はいつも通り余裕の表情で捻じ伏せてしまう。
意味がわからない。
理解が及ばない。
「それ~っ!」
気の抜けた掛け声で手を翳せば、莫大なエーテルが空間を崩壊させていく。
魔法の行使さえ封じられたテロメアは成す術なく、諦めたような表情で呑み込まれる他なかった。
まるで世界に穴が空いたかのような亀裂がその場に残っている。
近付き難い恐怖を覚える。
何もせずとも徐々に塞がっているようだが、その光景が余計にこの世界への理解を遠ざけていく。
「ほら、片付いたよ~」
裏懺悔はいつも通りにへらと笑う。
彼女にとっては些末な事で、大した手間でもない。
「……ッ」
吐きそうになるほどに思考がグルグルと迷走し定まらない。
平然を装うこともできない。
何かがおかしい。
都合が良いはずだというのに、体の震えが収まらない。
何が引っかかっているのか言葉にできない。
前提から間違っているのだろうか。
答えを導き出そうにも、必要な情報が手元に存在しない。
カラミティを結成し、組織規模を拡大させて一等市民の肩書きを得る。
そして筆頭議員に上り詰めて統一政府を掌握し、絶対的な地位を手に入れる。
きっとラプラスシステムのデータベースには、元の世界に戻るための情報があるのだと期待して。
――ラプラスシステム。
裏懺悔が探っている社会の中枢システム。
きっとそこには、彼女も知らないような"何か"が隠されているのだろう。
「……ッ、はぁ」
呼吸を正せ。
思考を整列させろ。
己に言い聞かせるように、クロガネは体中に力を入れる。
描いていた筋書きが崩れたわけではない。
脅威が排除されたと考えれば、むしろ事態は好転している。
軍務局長が不在の間は内部に混乱が生じるだろう。
裏社会への攻撃も弱まるはずだ。
その隙に可能な限り計画を推し進めていけば――。
「もー、聞いてる~?」
「煩い」
疑心を隠して普段通りに振る舞う。
幸いなことに裏懺悔はこちらに好意的だ。
この関係が続く限りは、クロガネに敵対してくるようなこともない。
なぜ、事あるごとに干渉してきたのか。
それを全て"都合が良い"と言い聞かせてきた自分にも非があるのだろうか。
「……」
その天真爛漫な顔をじっと見つめる。
無垢な笑みを浮かべているが、いったい裏にはどのような思惑を潜ませているのだろうか。
きっと、どこかで選択肢を誤ってしまったのだと――そんな予感がしてならなかった。