241話
――一等市民居住区、中央区。
権力の象徴と形容すべき街並み。
住民は何人と住んでいないような場所だというのに、一帯は多額の資金が注ぎ込まれ開発されている。
誰も住んでいないというのに。
外界よりも遥かに膨大な金額を費やして。
一等市民たちは、まるで箱庭でも作るかのように自分好みの街を実現させている。
中でも一際目立つのは、とある筆頭議員が創り上げた邸宅だ。
古めかしさを感じさせる木造の大きな屋敷には、それらしいセキュリティの一つも存在していない。
屋敷の中で、窓から外の風景を眺める少女――アグニ・グラ。
外出時は必ず付けている白い仮面も、今は外してゆったりと寛いでいる。
「……少しマシになったかな」
ワイングラスを揺らしながら溜め息を吐く。
脇腹を擦って、刻み込まれた"恐怖"を和らげようとする。
――大災禍級『召魔律』
黎明の杜によって齎された災害。
遥か古に存在したらしい強大な魔物によって、アグニはしばらく回復カプセルでの休眠を余儀なくされてしまった。
目覚めた時には既に"一望監視制管理社会"が実現されていた。
それ自体はアグニにとっても本意だったが、施策の細部を覗いていると幾つか不満を抱いてしまう。
本来予定していた制度よりも遥かに"締め付けが緩い"のだ。
アグニが提唱した方法であれば、世界全体が常にラプラスシステムによる監視下に置かれることになる。
負荷こそ重いものの、現状の出力で十分にエネルギーを賄えるはずだった。
「ちっ……腑抜け共め」
非常時に備えてシステムの何割かをセキュリティに割いたという。
常時監視による負荷は、さすがにラプラスシステムであろうと大半の魔力を費やすことになってしまう。
世界全体を把握するために"一定の間隔で観測波を流していること"は議員にしか知らされていない。
「……やっぱり、政府はボクが掌握すべきだ」
無能共に任せていられない。
観測波を打ち消す"Neef-4"という装置が生み出されたことも知っている。
その開発者に心当たりはあるものの、どうせ調べたところで証拠は掴ませてくれないだろう。
ワインを飲み干し、火照った体を冷ますように窓を開けて夜風に当たる。
衣服を取り払って下着姿になると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
「……くそ」
脇腹の傷は綺麗に消えている。
回復に大半のエネルギーを費やしたことで魔力は回復しきっていないが、あと一週間ほど休めば万全の状態に戻せるだろう。
思い出すのは、大災禍級の魔物と対峙した際の光景。
ラプラスシステムによる戦闘支援はアグニを優位に立たせていた。
あの時、横槍さえ入らなければ討伐も容易だったはずだ。
魔女としての能力の高さには自信があった。
この世界において、自分と並ぶような魔女は片手で数えられる程度。
強者としての自負があったからこそ、召魔律という魔物を前にラプラスシステムの支援が停止した際の無力さを実感してしまう。
「……あぁ、腹が立つ」
不意を突かれたとはいえ、まさかラプラスシステムの障壁を破られるとは思わなかった。
それを成したのは、以前から目を付けていた無法魔女――禍つ黒鉄。
人を人とも思わないような凍て付いた視線。
常に殺気を纏った刃物のような少女。
誰にも心を開いている様子は見られず、恐らく彼女の周囲を人質にとっても意味を成さないだろう。
「はぁっ……」
体を擦って、微かに声を漏らす。
ただの無法魔女と侮っていた相手が、まさか自分に一矢報いるとは思わなかった。
想定外が続いている。
世界が自分の手から離れていくような気がして、アグニは苛立ちを誤魔化すように体を捩らせる。
窓から素肌を晒していることも忘れて没頭する。
結局のところ、問題点は一つだけ。
ラプラスシステムによる戦闘支援があってようやく優位に立てていたはずの召魔律を、裏懺悔がまるで玩具で遊ぶ子どもように、無邪気に軽々と捻じ伏せてしまったことだ。
議員たちは裏懺悔の存在を見て見ぬ振りすることで心に安寧を築いている。
いずれ牙を向くかもしれないというのに、黒い思惑を抱えていない"部外者"として放置しているのだ。
明確な脅威としてアグニが唯一認めている無法魔女。
存在そのものが世界のバグのようなもので、既存の理論では彼女の力の一端さえ解き明かせない。
彼女の前では誰もが無力なのだ。
夜風が戦ぐ。
火照った体を撫でる心地よい風に、背を向けて全身を冷まそうとして――。
「――ッ!?」
咄嗟に反応できたのは、彼女が曲がりなりにも戦慄級の魔女だからだろう。
開け放した窓から押し入ってきた刺客に、手を翳し、即座に魔法を構築して迎え撃つ。
「遅い」
その手を払って魔法の軌道を反らし、クロガネが一気に距離を詰める。
不意を突かれたアグニは隙だらけだ。
そのまま懐に潜り込むようにしてアグニを捕らえ、床に押し倒す。
「くそ、放せよ!」
抵抗しようと必死に手を伸ばしてきたが、やはり本調子でないのか動きは以前より遅い。
それを掻い潜って、クロガネは慣れた手付きで"首輪"を取り付ける。
「あっ――」
カシャリ、と音が鳴る。
魔女を無力化するMED装置を内蔵した拘束具だ。
たとえアグニであろうと例外ではない。
魔力が大幅に減衰される感覚。
同時に、こめかみにひんやりとした感触が伝わる。
「……わざわざ、ボクを殺しに来たのかよ」
アグニは突き付けられた銃に視線を向け、すぐにこちらに視線を戻す。
声が震えていたが怯えている様子ではない。
どうやら、組み伏せられた悔しさと素肌を晒していることの羞恥に身悶えしているらしい。
戦慄級の魔女を無力化させられるほど高性能なものではない。
CEMお手製のMED装置でも、精々が大罪級まで。
それでもアグニは魔法を十分に行使できない。
乱れた下着姿で、武器らしいものも隠している様子もない。
普段付けている白い仮面さえない状態で、こちらを睨み付けている。
魔力減衰によって圧倒的な優位を得た。
後は、完全に無力化するだけ。
「抵抗すれば殺す」
銃口を強く押し付けて警告する。
不審な動きをすれば即座に射殺する――これが本気の脅しだと気付いて、アグニはピタリと動きを止めて黙り込んだ。
MED装置では抑えきれないのであれば、単純に魔力を奪ってしまえばいいだけのことだ。
そのための手段をクロガネは持っている。