231話
――一等市民居住区。
それは、この世界において最も自由な者たちの居住区。
東西南北に一箇所ずつ、計四箇所に一等市民たちが贅の限りを尽くして暮らしている。
「それぞれに魔法省の支部が隣接していて、内部も統一政府軍部によって警備されている……悪が付け入るような隙は一切無い」
そう言って、眼帯を着けた女性がワインを呷る。
年齢は二十代半ばほどのように見えるが、実年齢を知る者はいない。
一等市民居住区の警備体制に関しては語るまでもない事だ。
あくまで取引の品を魅力的に見せるため。
これは前置きに過ぎない。
対面に座る取引相手に対して、女性――ケリー・デンズはこう提案した。
「ウチには正式な認可を得た納品業者とのツテがある」
商談としては中途半端なものだ。
デンズファミリーは定期的に納品する業者とツテがあって、高額な取引を継続的に行える。
だが同時に、巨大な組織とのやり取りは大きなリスクでもある。
「提案できるものはそれだけ?」
相手は物足りないといった様子だ。
だが、その価値を理解しているようにも見える。
「他のシンジケートにはない強みよ? 特に、貴女のような人なら気に入るはずなのだけれど」
ケリーはもう一度ワインを呷る。
こうでもして緊張を解さなくては、声に震えが出てしまいそうだった。
対面に座っているのは明確な捕食者だ。
彼女にできることは、自らの価値を最大限に見せて助命を求めるのみ。
自然とこうした振る舞いができていたなら、きっとこんな無様は晒さなかったことだろう。
無法魔女がじっとこちらを見つめている。
その鋭い眼光に射抜かれて、心の内を全て見透かされているのではという恐怖を必死に噛み殺していた。
「悪くない」
室内を満たしていた殺気が消え去る。
一先ずは合格なのだろう……と、ケリーは思わず安堵を表に出してしまう。
慌てて取り繕おうとするが、そんな振る舞いは無意味だろう。
彼女を前にして平然としていられる人間など限られている。
今回デンズファミリーが取引を行っているのは、誰よりも危険な雰囲気を帯びた少女――。
「それで、対価に何を望むの?」
カラミティの首領――クロガネがケリーに対して問う。
この取引に興味を抱いたらしい。
秘密裏に行われている会合。
同時刻にゾーリア商業区で行われている茶番とは別で、互いの組織のトップ同士で取引を行っていた。
「デンズファミリーは近隣地域で最初に従属を選ぶシンジケートになる。ウチが傘下に収まれば、商業区内のシンジケートも後に続く……だから、少しだけ甘やかしてほしいのよ」
今の社会は異常だ。
個々人のプライバシーが失われ、政府によって常に監視され続けている状況。
Neef-4によって最小限の死角を生み出しているものの、自由という言葉には程遠い。
「それだけ?」
「傘下に収まった方がデンズファミリーにとっても利益になるし。有用な駒だと分かれば、いずれディープタウンに招待してもらえるかもしれない」
彼女はカラミティが潜っていることを知っているようだ。
組織規模が大きいだけあって、それなりに広い情報網を持っているらしい。
「その割に好戦的なようだったけど?」
デンズファミリーはこちらの縄張りに様々な手段を用いて人を送り込み、勢力を削ごうと画策していた
密売人や無法魔女、他にも数え切れないほどの刺客が差し向けられたが、全てクロガネの手によって処理されている。
その問いにケリーは頭を抱えつつ、正直に吐露する。
「ウチの幹部が議員に媚を売ろうとしているのよ。要は裏切りね」
ケリーは写真を取り出して見せる。
彼女の最側近として知られるロシオ・ゼア――彼が何かを企んでいるのだと。
彼と仮面を付けた何者かが密談をしている場面。
それを写真に収めているということは、それ以前から不穏な動きがあったのだろう。
「一等市民の推薦枠を狙ってる?」
「十中八九そうでしょうね。かなりの野心家だとは思っていたけれど、まさか組織を売るとまでは思わなかったわ」
クロガネが少し興味を抱いた素振りを見せると、ケリーはもう一押しとワインを飲んで話を続ける。
「もう彼はデンズファミリーの一員じゃない。だから、把握している情報も大半は共有していないわ」
「ロシオがカラミティに喧嘩を売ったのも?」
「そう、そうよ。彼は貴女たちがディープタウンに潜っていることさえ知らない」
だから……と、ケリーは話を続けようとする。
彼女の言い分を一通り理解した上で、クロガネは不愉快そうに口を開く。
「ロシオの派閥はデンズファミリーを裏切っているから、自分とは関係ない。勝手に暴れて、勝手に殺されるだけ――」
ケリーの話を受け取ることはできない。
都合の悪い部分を話題に出さずに、取引の品物に意識を向けさせて誤魔化そうとしている。
「部下の落とし前くらい自分で付けなよ?」
呆れたようにケリーを見つめる。
どうやら彼女は、カラミティにロシオの派閥を始末させたいらしい。
それ自体は大した手間ではない。
どれだけ戦力を掻き集めたところで高が知れている。
だが、ゾーリア商業区の抗争に一等市民が絡んでいるとなれば話は変わってくる。
「けれど、それを差し引いても――」
「リスクに見合う報酬が提示できてない」
背後にどれだけ巨大な陰謀が潜んでいるか分からない。
以前ガレット・デ・ロワから引き受けた依頼で、アルケミー製薬幹部が一等市民推薦枠を狙って暗躍していたことがあった。
ロシオを見た限りではそこまでの危険性を感じられないが、何かしらの支援を受けていると厄介だ。
ケリーは一等市民に睨まれることのリスクを理解している。
ロシオを処理することも不可能ではないが、その後に恨みを買ったデンズファミリーが存続できるとは考え難い。
「癌の切除を押し付けたいなら、相応の対価を。提示できないなら用はない」
クロガネは手を翳して、ちょうどケリーが手を伸ばそうとしたワイングラスを『破壊』する。
彼女にはリスクを背負う覚悟が足りない。
そういった意味では、提案に即座に頷いた屍姫たちと比べて数段劣る人材だ。
味方に引き入れたところで十分な活躍は見込めない。
ケリーも出せるものは全て出したつもりなのだろう。
実際に、これ以上の対価を提示することは組織自体を解体しなければ不可能だ。
顔を青くしている彼女に、クロガネは僅かばかりの慈悲を与える。
「けど、一等市民居住区には興味がある」
一等市民は敵対するリスクがあまりにも大きい。
街ですれ違うだけでも人生を奪われる危険すらあるほどで、よほどの愚者でなければ、彼ら彼女らを前にすれば迂闊な行動を控えるだろう。
中でも"議員"と呼ばれる肩書きを持つ一等市民は別格だ。
この世界の全てを思うがままにできる。
その筆頭として知られる赤毛の魔女――。
「アグニ・グラの居場所に案内できる?」
あまりにも危険すぎる取引。
一等市民居住区に探りを入れるだけでは物足りない。
これだけの対価を用意できるならば、ケリーが言う通り"甘やかす"ことを考えてもいいくらいだ。
召魔律の猛攻によって負傷し、万全とは程遠いほどに消耗している。
治療中のアグニならば、今のクロガネにとって天敵にはならない。
そして、カラミティはそれと釣り合う庇護を与えられる。
「やれる?」
「……お任せを」
あまりにも無茶な要求だったが、その条件を呑まざるを得ない。
それ以外に彼女が助かる手段は残されていないのだ。