226話
時間は僅かに遡り、黎明の杜を壊滅させてから一週間後。
世界中の技術を集約させた都市――アルカネスト特別区域。
その中心に聳え立つ魔法省本部に、ある人物が来訪していた。
「一等市民居住区と同様、この特区にも厳重な監視が行われる」
窓越しに眺める街並み。
そこには一切の犯罪も存在せず、完璧な秩序が保たれている。
それも全て、魔法省による治安維持の賜物だ。
一望監視制管理社会の発表以降、犯罪件数は減少傾向にあった。
施行されたなら個人による突発的な犯罪は即座に鎮圧され、計画的な組織犯罪に対しても絶大な抑止効果を持つ。
さらに、一般居住区よりさらに上の監視体制を敷いている一等市民居住区などの重要地域では尚更だ。
「特権階級には安寧が約束され、二等市民にも"制約付きの自由"が与えられている。今後、この世界に悪の付け入る隙など無い」
そう言って、フォンド博士は嗤う。
呑み込んだ以降の言葉が皮肉だということは聞くまでもないだろう。
「はぁ……それで、博士はなぜ魔法省に?」
ヘクセラが頭痛を堪えつつ尋ねる。
近頃は悩みの種が多く、薬を常用しているような生活が続いていた。
「ユーガスマ・ヒガ執行官の離反後、魔法省は悪を抑止するための力を失ってしまった。長官殿も気付いているだろう」
「まさか。抑止効果は以前よりも強力になっている」
施策の発表以降、無法魔女の投降数も増加傾向にあった。
この後の世界では逃げ切れないと判断したのだろう。
結果として、ヘクセラの推し進めていた魔女名簿の登録も進んでいる。
「戦慄級『雷帝』の名簿登録によって魔法省は再び力を取り戻している。純粋な戦闘力で見れば、同じ戦慄級の徒花を上回るだろう」
黎明の杜による一連の騒動。
その最中に、登録魔女筆頭である徒花が殺されてしまった。
「これでもう、危険因子に遅れを取るようなことは――」
「長官殿」
フォンド博士が発言を遮る。
本心を見透かしていると言わんばかりに嘆息して、
「愚者のフリをするのはやめたまえ」
無益だ……と、呆れたように肩を竦める。
彼が話している内容は、そんな下らないことではない。
「背後に統一政府の影があるからこそ、魔法省は抑止力として存在できている。だから愚昧な傀儡として振る舞わざるを得ないのだろう?」
人類最強――あるいは、魔女さえも凌駕する逸材。
危険な改造手術にも適応したユーガスマは、統一政府とのパワーバランスを保つための重要な鍵となっていた。
そんな彼が離反してしまった。
執行官の肩書きを捨て、どこかに姿を消してしまったのだ。
どれだけ捜索しようと行方は分からない。
「……」
「その沈黙は肯定と捉えさせてもらおう」
ヘクセラは言葉を返すことができない。
彼女の立場では肯定も否定も許されないのだ。
魔法省の現状こそ、耐えない頭痛の原因となっているものだった。
全ては治安維持のため。
統一政府の威を借りなければ、こうして魔女名簿の拡充は果たせなかったはずだ。
「従属を選び、その上で最低限の裁量を確保している。その交渉力は評価対象になり得るが――」
フォンド博士の眼光がヘクセラを穿つ。
極めて厳しい視線だ。
「諦念を抱き、この現状を受け入れているとも」
「黙れッ――」
ヘクセラは声を荒げ、フォンド博士に詰め寄る。
この男はあまりにも危険すぎる。
会話だけで、心の中を全て暴かれてしまいそうだった。
「政府は市民を守るために活動している。魔法省が協力することが間違っているとでも」
言葉を並べ立てたところで無意味だ。
だが、沈黙すれば彼は肯定したと捉えてしまう。
この狂人の話に乗せられてはならない。
決して信用してはならない相手だ。
そう分かっていても、この先の言葉に微かに期待している部分も否めない。
「権力は分かたれるべき……と、わざわざ優秀な長官殿に初歩の初歩から語る必要があるかね?」
魔法省は統一政府の判断に異を唱えられない。
命令があれば従うのみで、以前のように意見書を送るようなことさえ許されない。
「長官殿が警戒する気持ちも分かる……あぁ、非常によく分かるとも。彼女の誕生によって全てが崩れてしまったのだから」
そう言って、フォンド博士はヘクセラの肩に手を置く。
「提案は非常にシンプルだ。長官殿はただ、黙って頷くだけでいい」
顔を覗き込むように――その奥にある感情を見透かすように。
まるで全てを見通して、欲しいものを与えると囁く悪魔のようだ。
彼の手を払い除けるには魔法省は弱り過ぎていた。
「優秀な被検体を預けよう。指揮官は信頼の置ける人材を選定し、長官直属の新たな部隊を設立するのだ」
ホログラムを展開させ、各被検体のデータを表示させる。
書いてある情報はあまりにも危険なものだ。
「元執行官殿と同様の施術を行い、適応した者たちだ。彼ほど適合率は高くないが、それぞれが類稀な能力を発現させている。部隊としての総合力ならば彼にも引けを取らないだろう」
ユーガスマに匹敵するほどの部隊を動かせるとなれば、パワーバランスにも大きな影響を及ぼすだろう。
それこそまさに、魔法省――ヘクセラが最も必要としているものだ。
「……何が目的だ」
辛うじて、抵抗するように凡庸な言葉を投げる。
そんな問いを彼が予想していないはずがないというのに。
「研究者としての立場から言うならば、被検体の実戦データが取りたいだけだ。機動試験だけで得られる情報は既に揃っている」
魔法省所属の捜査官になれば、各地で様々な状況下でのデータが得られる。
それは戦闘面だけに留まらない。
「だが、個人としての意見を述べるのであれば――」
ヘクセラの耳元で悪魔が囁く。
本心を、数多の虚構で飾り付けて投げかける。
そして、それ以上を明かすことはなく手を引っ込めた。
「……っ」
彼の言葉が真実であるならば。
一切偽りのない本心であるならば。
「建前に戻すが……私はデータが欲しい。長官殿は力が欲しい。互いに損のない提案だと思うが」
フォンド博士は返答を聞くまでもなく被検体のデータを送信する。
既に譲り渡す気でいるらしい。
そして、ヘクセラもそれを拒むことができない。
破格の条件だ。
研究資金を要求するわけでもなく、それほどの人材を委ねるというのだ。
その意図が見えないことだけが懸念事項だったが――。
ヘクセラは熟考の末に、観念したように頷く。
「宜しい」
その選択を称賛するように、フォンド博士が嗤う。
彼女が断れないことを知っていて話を持ちかけたのだ。
双方に利益があって損をさせない。
ヘクセラにとって最善の手であることは確かだった。