217話
「何ですか、あれは……っ」
屍姫が戦慄く。
魔力が天高く突き抜けたかと思うと、上空に巨大なバケモノが出現したのだ。
「何よアレ……」
マクガレーノも呆然と立ち尽くす他なかった。
理解の及ばない存在だったが、恐らく地上を蹂躙しようとしていることだけは感じ取れる。
それだけの殺気を振り撒いていた。
交戦していた統一政府の兵士たちも、バケモノの出現によって即座に撤退を選んでいた。
彼らの背中を撃つ余裕すら二人には無い。
そこにロウが部下を引き連れて駆け付け、
「撤退だ、急げ!」
二人を現実に引き戻すように、声を荒げてクロガネからの命令を伝えた。
◆◇◆◇◆
電子回路図のような翼を緩慢に揺らしながら、召魔律が上空に浮遊している。
意図を読み取れないが、何か意味のある言葉を一人で紡ぎ続けていた。
エスレペス一帯を圧倒的な魔力によって支配している。
クロガネでさえ機式を維持するだけでかなりの魔力を消耗してしまうほどだ。
討伐のために魔女を掻き集めたとしても使い物にならないだろう。
そもそもの話、敵対しようとする事自体が馬鹿げている。
賢い者ほど逆鱗に触れないよう身を隠すだろう。
「戦闘支援を要請」
《要請確認――承認。非常事態と判断し、メインシステムによる支援を行います》
アグニの後ろにホログラムのような立体映像で少女の姿が映し出される。
それが現れた途端、上空から押し潰すような魔力の重圧が消え去った。
それがラプラスシステムの本体であることはすぐに理解できた。
召魔律の保有魔力も馬鹿げているが、それに匹敵するほどの力を感じられる。
世界を滅ぼすであろう悪魔に対して、アグニは秩序の番人のように振る舞う。
「危険因子は排除する。キミはそこで見てなよ」
いい見世物になる……そう嗤って、アグニが空高く飛翔する。
わざわざ見えやすいように高度を合わせ、敢えて自身の姿を晒して敵に認識させる。
『反応、観測魔――真贋、価値無キ者ノ傀儡』
何かを呟きながらアグニを――その背後に控えるラプラスを見据えている。
「――堕落星屑」
アグニが魔法を放つ。
同時にラプラスが手を翳すと、無数の魔法が展開されて光弾に強化を施した。
たった一つの星屑が、召魔律の翼を穿つ。
そうすることでようやく脅威と認識したのだろう。
召魔律はコアを明滅させながら翼を動かす。
『虚――魔、連ナル崩落』
「なっ――」
無数の魔法陣がアグニを取り囲むように展開され――空間ごと捻じ曲げて消滅させる。
だが、それもラプラスによって即座に修正される。
《――空間修復、完了》
手を翳して捻じ曲げられた空間を復元する。
彼女によって守られていたアグニも無傷だった。
敵は人知を超えた存在だが、ラプラスもまた人知を超えた存在。
そしてまた、格で劣ることはないと"予知"されている。
世界の全てを観測するラプラスシステムが、勝利に至る道に変数はないと結論付けているのだ。
「あはっ――やっぱり全部、無意味だったね」
黎明の杜を嘲るように光弾を連射する。
確かに召魔律は世界を滅ぼし得る魔物だが、統一政府はそれを上回る戦力を保有している。
光弾を放つ度に、体を構築している悪魔式が削られていく。
その光景は氷翠と啓崇にとって悪夢そのものだった。
「……私たちは、結局何も成せなかったんだ」
悪魔式を揃えたところで意味が無かった。
統一政府が世界を管理している以上、どれだけ自由を求めたところで弾圧されるだけ。
これだけ猶予を与えられていたというのにこのザマだ。
自分の愚かさが多くの命を散らせてしまった。
もはやアグニと召魔律の戦いを見上げる気力すら湧かない。
「……そんなことはありません」
啓崇が呟く。
「希望のない日々を過ごすより、目標のために身を捧げて生きてきた日々の方がずっと幸福でした」
あのまま三等市民として過酷な労働環境に身を置くよりも。
道半ばで朽ち果てた者たちは皆、己の人生に価値を感じて噛み締めていた。
「氷翠様は、本当に多くの人間を救ったんです」
それは気休めの言葉ではなく本心だ。
烙鴉も壊廻も、他の仲間たちも。
死の瞬間に己の選択を悔いたものは誰一人としていなかった。
「それでも、私は……」
氷翠だけが、己の選択を悔いている。
この絶望はどれだけ言葉を投げ掛けたところで消し去ることはできない。
「氷翠様……っ」
大切な仲間が苦しんでいる時に、手を差し伸べることもできない。
あれだけ信者たちを熱狂させてきたというのに。
今この場で、氷翠の心を救うための言葉が思い浮かばなかった。