210話
全てを捨てて自分だけ生き延びろと。
啓崇の囁きは、信者たちに声を掛ける時と同じような優しさを帯びていた。
「そんなこと、できるわけ――」
氷翠は即座に拒む。
大切な仲間たちを見捨てられるはずがない。
自分には皆を導いてきた責任があるのだから、そんな卑劣な真似ができるはずがない。
そんな甘い考えを持っていたばかりに、啓崇の提案は無駄になってしまった。
激しい爆発音と共に、作業場の壁が破壊される。
瓦礫で何人かが生き埋めになり、慌てて駆け寄ろうとするが――。
「いつまで遊んでるの?」
心底呆れた様子で、クロガネが銃を向ける。
悪魔式が増えた今なら探知系統の魔法を持っていても不思議ではない。
だというのに、黎明の杜は無警戒で武器すら構えていなかった。
自分が姿を見せた瞬間に、即座に武器を構えられたのは啓崇だけだ。
既に戦意を喪失している者が大半で、そうでない者も士気が高いとは言い難い。
アグニの干渉がよほど効いたのだろう。
誰よりも残酷な彼女なら、氷翠が参ってしまうほどの脅しをかけていてもおかしくはない。
顔を見せるだけで、何か罠を仕掛けていったわけではないようだ。
とはいえ、同情するつもりはない。
視界に映る全てが敵だ。
「機式――"カヴァレリスト"」
地面に突き立てられた牙のような脚部。
無数の束ねられたバレルをターンテーブルで繋いで、視界に映る全てを消し飛ばす機関砲。
砲身が唸るように回転を始め、叫ぶように激しさを増していき――。
「やめッ――」
我に返った氷翠が咄嗟に魔法を構築するが、大口径の弾丸が薙ぎ払うように建物内を撃ち抜いていく。
断末魔さえ激しい銃声に掻き消されて響かない。
弾薬を惜しまない全力の掃射によって建物が崩壊を始める。
そして、弾薬が尽きる頃には建物など跡形もなく――辛うじて、氷壁を生み出した氷翠と彼女の後方に控えていた仲間たちだけは無事だった。
生き残った者たちは、容赦のない殺戮に呆然と立ち尽くすしかなかった。
命からがら逃げ延びてきた合流座標が簡単に割れ、こうして再び窮地に陥っている。
戦意など持てるはずがない。
全てが絶望に染まりきっている。
そんな仲間たちの様子を見る余裕がないほど、氷翠も希望を失ってしまったらしい。
カヴァレリストの召喚を解除して、改造されたハンドガンに持ち替える。
この一回だけでほとんどは無力化できた。
圧倒的な破壊を終え、静寂が支配する空間に――。
「――掃討開始」
クロガネの言葉と同時に、周囲から無数の銃声が鳴る。
だが、敵の数が少ないこともあって三秒と経たずに鳴り止む。
「下っ端の処理は完了だ」
銃を構えたままロウが告げる。
残ったのは魔女が三人。
仲間たちの呆気ない最期に、氷翠は怒り狂ったように手を翳す。
「お前がッ――」
邪魔をしなければ、こんな悲惨な運命を辿らずに済んだ。
そう叫ぶように魔法を行使――蒼い魔力が吹き荒れ、クロガネの周囲を瞬時に凍り付かせる。
だが、体に『破壊』の力を帯びたクロガネには届かない。
冷気を振り払うように魔力を放出すると、反動によって氷翠が「ぐっ……」と呻く。
悪魔式を集めることで能力を増やす氷翠と違い、クロガネは命を奪うことで魔女としての力そのものを伸ばすことができる。
同じ魔力量であれば多様な能力を持つ氷翠が有利だが、魔女同士での戦いは基本的に魔力量によって勝敗が決まってしまう。
――反魔力によって魔法を打ち消せるほどの差が開いている。
その事実が、氷翠の自信を更に奪っていく。
技術面での差は感じていたが、それでも魔女としての格では勝っているつもりでいた。
悪魔式さえ揃えば勝てるだろうと――。
「悪魔式――『複合行使』」
嫌な考えを振り払うように、氷翠はこれまで集めてきた全ての強化魔法を発動させる。
体中の組織が悲鳴を上げるが構わない。
今この瞬間だけでも耐えられたらそれでいい。
「私は、お前を……ッ!」
荒い呼吸で肩を上下させる。
半ば自棄になっているようにも見えたが、命を擦り減らすほど能力を使っているのは事実だ。
その覚悟は本物だろう。
不足している悪魔式はあと一つ。
それを手に入れるために、彼女は命を捨てることも厭わないだろう。
「……へえ」
クロガネは感心したように口角を持ち上げる。
追い詰められたことで、これまで感じられなかった気迫を帯びている。
強烈な殺気――しかし、激情に思考を支配されているわけでもない。
この世の全てを憂いて、憎んで、無力感に苛まれつつも足掻こうとする意思。
初めからそんな目つきをしていたなら、結果は違っただろう……と。
そんな哀れみを抱きつつ、クロガネは銃を構えた。