208話
「――あはっ」
無邪気な笑い声で、作業場に身を潜めていた者たちを嘲る。
そして、くすんだ赤毛を揺らして一礼する。
「あー、初めましてかな? ご機嫌よう、黎明の杜諸君」
威圧するように魔力を立ち昇らせる。
事実として、彼女はこの場の大半を萎縮させるほどの力を持っている。
――統一政府所属筆頭議員、アグニ・グラ。
対面することこそ初めてだったが、外見と馬鹿げた量の魔力だけで見誤るはずがない。
その名と容姿くらいは把握していた。
戦慄級――それも上位に位置する力を持っている。
逃げ延びてきた戦闘員たちでは数合わせにすらならないだろう。
「……嘲りに来たのか?」
氷翠は臆することなく先頭に立ち、問い掛ける。
気配を察知されずにいたというのに不意打ちさえしてこなかった。
ならば、何らかの意図があって接触してきたはずだ。
悪魔と取引をするつもりはないが、この窮地を乗り越えるために少しでも情報が必要だった。
「半分正解かな? もう半分は、ここまで戦い抜いたことへの称賛ということにしておこうか」
侮辱と称賛。
それが同時に存在するはずがないというのに、不思議と彼女からはそれが感じられる。
「取るに足らない雑魚の分際でさ。まあよくここまで頑張れたものだよ。どうせバッドエンドになるって分かりきってるのに」
下等生物が頑張っている。
だから褒めてあげよう。
無邪気な悪意を露わにして、アグニが嗤っている。
「お前に何がわかるッ――」
挑発に乗って、氷翠は魔力を全開にして氷嵐を吹かせる。
だがアグニは涼しげだ。
「分かってないのはキミたちの方だよ」
途端に冷めた声色で呟く。
そうしてアグニが徐ろに手を翳すと――。
「対象指定――"氷翠"を転送して」
《――承認。中枢領域への転送を開始します》
氷翠の視界が暗転する。
胸を締め付けられるような苦しさと、酷い酩酊感。
視界が回復する頃には、氷翠は全く異なる場所に立たされていた。
「――ここがどこか分かるかい?」
アグニが尋ねるが、返答はない。
空間を支配する圧倒的な魔力と凍て付いたエーテルによって、何も言葉を紡ぐ余裕がなかった。
室内とは思えないほどの巨大な空間。
どうやら天井からワイヤーで吊られている金網のような足場に立っているらしい。
恐る恐る見下ろせば、そこには培養液に満たされたカプセルが無数にあった。
それら全てから部屋の中央に向けて配線が繋がれている。
外観は巨大なサーバーのようで、魔法工学による建造物だと理解できた。
「この世界を統べる神、ラプラスシステム。迂闊なキミたちは、一挙一動を丁寧に彼女に見せてくれたね」
慈善団体としての立ち上げから革命組織に姿を変え、宗教によって弱者を掻き集めて蜂起するに至るまで。
その全てが筒抜けだったのだとアグニが嗤う。
「彼女は無数の魔女を繋ぎ合わせた大規模な煌学演算装置。この社会の根幹を担う管理システムであって、最上位の権限を持つ存在だよ」
「こんな、機械なんかが……」
理不尽な社会を形成しているのか、と。
氷翠の拳が震える。
今もなお、三等市民たちは虐げられ続けている。
魔女たちは魔女名簿の下、自由を奪われて飼い慣らされている。
それを是としている存在こそが目の前の巨大な機械なのだ。
そんな激しい感情の揺らぎを、アグニは愉快そうに堪能している。
「世界中に存在する数多のシステムが彼女と繋がっていて、誰もが知らずの内に多くの個人情報が奪われている。ほんと、キミたちも不用意だ」
そう言って氷翠の耳元に顔を寄せ、
「気持ちよかったかい? 作戦後の火照った体を重ね合わせるのは――」
「やめろッ!」
どうにか飛び退くが、この空間内で氷翠は無力だ。
常軌を逸した反魔力を持つ支配領域。
戦慄級の彼女でさえ魔法を発動できない。
確かに神という言葉を否定できないほど、この機械は途方もない魔力を保有しているらしい。
こんな存在を相手にしようとしていた――自身の無謀さを悔いるにしても、こんなものが出て来ると想像できるはずがなかった。
「……なぜ私にこれを見せた」
「頑張ったご褒美だよ。自分がどうして殺されるのかくらい知っておきたいと思ってさ」
――キミも彼女の一部になってもらう。
そう言ってアグニが嗤う。
抵抗さえ許されない状況だ。
氷翠にとっては全てが想定外で、アグニにとっては全てが想定内だった。
「初めから全てが筋書き通りだったんだ。キミたちが辿ってきた道筋は、それより以前に作成されたデータに纏められている。未来予知と嘯くお友達よりずっと優秀だと思わないかい?」
神の言葉を賜る器ではない。
このラプラスシステムは神そのものなのだと。
その絶望は計り知れない。
自分たちが足掻いてきた時間さえ無駄だった。
統一政府がその気になれば、黎明の杜を容易く壊滅させられることだろう。
辛うじて逃げ延びてきた仲間たちまで殺されてしまう。
そんな恐怖が氷翠の心を支配していた。
そんな様子さえアグニは愉しそうに眺めている。
当然ながら、その程度の屈辱を与えただけで終わるほど彼女は優しくない。
「まあでも、ボクも鬼じゃないからね。一回だけチャンスをあげるよ」
指を鳴らすと、再び視界が暗転する。
直後には作業場に戻っていた。
「氷翠様っ!」
啓崇が慌てて駆け寄る。
急に姿を消したことで、彼女だけでなく仲間全員がパニックに陥りかけていた。
「本当に脆弱だ、キミたちは」
そんな様子さえ、アグニからすると愉快で仕方がなかった。
「猶予を一時間だけあげるからさ。どうにかして、儀式を完成させてみてよ」
氷翠を背後から抱き締め、服の下に手を滑り込ませる。
埋め込まれた遺物を探るように胸元を弄って、
「その遺物の力にはボクも興味があるんだ」
熱っぽい吐息混じりに耳元で囁く。
ただの好奇心で、世界に甚大な被害を齎すかもしれない儀式を行えというのだ。
常人には理解できない思考をしている。
「私達が要求を呑まなかった場合は、どうするつもりなんだ?」
「皆殺しだね。力の差はキミが一番理解しているはずだ」
満身創痍の壊廻と、直接的な戦闘能力を持たない啓崇。
そして、装備が整っているとはいえ生身の人間が百人程度。
氷翠を合わせたところで統一政府相手ではまともに抵抗さえできないだろう。
「成功したなら、キミ以外のメンバーを見逃してあげてもいい。後のことが心配なら二等市民の戸籍も用意してあげようか?」
氷翠を捕らえることは決定事項らしい。
だが、それでも仲間たちが見逃されてその後の生活まで得られるというのなら――。
「……分かった」
全滅するよりは遥かにマシな結末だ。
組織のリーダーとして、仲間たちまで命を捨てさせる訳にはいかない。
それに加え、儀式が完成したなら統一政府に対抗できるほどの存在を呼び出せるかもしれない。
最も憎むべき相手の言葉に従わざるを得ない。
苦渋の決断だった。