207話
――エスレペス北工業地域、C-3区画。
区画中央にある駅から北に約三百メートルほどの地点。
三等市民居住区であるC-5区画行きの線路が通る高架下に、巧妙に隠された通路が存在していた。
ホログラムによる隠蔽を解除すると金属製の板が現れる。
人間の腕力ではびくともしないが、エーテルによって強化された魔女ならば抉じ開けることができる。
元は工業地域の開発時に使用されていた作業用トンネルで、劣化が酷く放棄されていたものだ。
時と共に忘れ去られ、地図からも消失した秘密の通路。
魔法省の監視を掻い潜ってC-5区画まで移動することができるため、啓崇たちはこの場所をよく利用していた。
C-5区画内の拠点は全て、ヘクセラ長官を誘拐した際の"謎のエーテル災害"によって壊れてしまったが、この作業用トンネルはまだ途中まで生きている状態だ。
中間地点にある梯子を登り、外に出る。
C-4区画の端――エーテルの淀んだ空気が漂う労働区画に出る。
死んだような目をした三等市民たちが働いている中を駆け、やっとの思いで目的の場所に辿り着いた。
そこは、エーテル汚染物質を処理するための一時保管場だった。
広大な敷地内には、研究区画で破棄された魔物の死骸や汚染物質が煩雑に並べられている。
奥には作業場が設けられており、その内の一つが緊急用の合流座標となっていた。
この場所まで割れていたなら、もうどうにもならないだろう。
苦しいほどに跳ねる心臓を抑えながら、ドアの電子ロックを解除すると――。
「……っ!」
各地の襲撃を逃げ延びてきた者たちが集まっている。
人数も軽く見渡しただけで百は超えていて、これならまだ十分に立て直せるはずだ。
希望が潰えたわけではない。
「……啓崇!」
逃げ延びてきた啓崇に気付いて、氷翠が慌てて駆け寄る。
「無事でよかった。あの執行官が襲撃に来たと聞いて、啓崇まで失うかと……」
酷く憔悴した様子で啓崇を抱き締める。
まるで縋るような弱々しさに困惑しつつも、啓崇は恐る恐る尋ねる。
「あの、氷翠様……壊廻はどこに?」
先に本部から逃がしたはずの壊廻が見当たらない。
氷翠も苦しそうな顔をして視線を逸らしてしまう。
「壊廻は……奥で治療中なんだ。どうやら逃走ルートも割れていたらしい」
内通者を見抜けなかった自分の責任だ……と、氷翠が肩を震わせる。
自分は組織のリーダーとしてあまりにも未熟すぎたのだと。
「……っ」
この場には、氷翠に賛同して命を預けてくれた者たちが集まっている。
弱音を吐くことさえできずに抱え込んでいたのだろう。
絶望的な状況の中で、壊廻さえ死の危機に瀕している。
そんな中で帰還した啓崇の姿に、誰もが期待の眼差しを向けていた。
教祖としての器――ではなく、彼女の持つ『天啓』の力に縋りたいのだろう。
希望は失われてはいない。
その一言さえあれば、彼ら彼女らは決死の覚悟で戦いに臨める。
まさか魔法を失ったなどと想像もしていない様子で、啓崇は息苦しく感じてしまう。
未来予知によって皆を導くことができない。
魔法を失ったことで『悪魔式』の糧になることさえ叶わない。
現時点での彼女は、ただ無力な一人の少女でしかなかった。
「……氷翠様、悪魔式は集まりましたか?」
最後の望みがあるとすれば、氷翠の悪魔式によって状況を覆すことだろう。
完成さえすれば魔女として圧倒的な力を得られ、儀式を行えば世界を崩壊させる悪魔を呼び出せる。
ただ、それが"失敗作"の烙印を押されていることも啓崇は知ってしまった。
結局のところ、自分もまた氷翠に縋っているだけに過ぎないらしい。
そう自覚して余計に目を曇らせる。
「あと一つで完成する。けれど……」
身を潜めていることしかできない。
外に出て魔法省に見付かりでもしたら、今度こそ組織が壊滅させられてしまう。
抵抗したとしても生き延びられるのは氷翠くらいだ。
組織を立て直すには時間が必要だ。
集った仲間たちも、蓄えた物資も、何もかも全て失ってしまった。
「……氷翠、躊躇しないで」
休んでいたはずの壊廻が、ふらつきながら部屋から出てきた。
治療装置のケーブルも無理矢理引き抜いてきたらしく、血の跡が滲んでいる。
「壊廻っ……ダメだ、休んでいないと」
酷い怪我を負っている。
追手を撒くために無理をしたのだろう。
顔も青褪めていて、適切な治療を施さなければ命に関わる容態だ。
だが、この拠点には応急処置程度の装置しかない。
出力不足で負傷箇所の再生が間に合わず、このままでは魔女の体でも失血死してしまう。
だというのに、壊廻はその命綱さえ振り払ってきた。
命を捨てる覚悟は既にできている。
「悪魔式の最後の一つは、ここにあるよ」
氷翠の手を掴んで、自分の胸に押し当てる。
弱々しい鼓動が感じられる。
「あたしの魔法なら、きっと氷翠の力になれる。だから――」
言葉を遮るように銃声が響く。
咄嗟に氷翠が氷壁を展開させ、辛うじて弾丸は食い止められた。
その結果を予想していたようで、襲撃者は特に何かの感情を抱くわけでもなく銃を捨てる。
ここに至るまで全ての事象が想定の範囲内だ。
それが物足りなくもあり、全能感を味わえる蜜でもある。
いつ侵入したかさえ分からない。
その痕跡さえ見当たらない。
唐突に現れた最凶の魔女は、長い髪を揺らして"仮面"の奥で口角を釣り上げ――。
「――あはっ」