185話
時は僅かに遡り――深夜二時。
そこは、ブラックマーケットから幾つもの中継地点を経由してようやく辿り着ける街。
極めて高いセキュリティによって守られており、一般人が迷い込むようなこともない。
その場所に行くのは初めてだった。
空が真っ黒に染まっていることを除けば、普通の商業区と似たような街並みだ。
暗い街道を歩きながら、クロガネは周囲に意識を向ける。
至る所に悪意が渦巻いている。
向けられる殺気の数は途方もない。
隙を見せれば即座に首を切られそうな、剣呑な空気に満たされていた。
「……」
中には強大な魔力の気配もあって、この場所が生半可な覚悟で踏み入れていい場所ではないと改めて理解する。
きっと表では姿を一切見せないような大物もいるのだろう。
この地こそ、裏社会における最深部――ディープタウン。
大悪党が絶えず派閥争いを繰り広げている、招待制のコミュニティだった。
「あぁ、いい空気だ。お前さんもそう思うだろ?」
アダムが愉快そうに笑い、同意を求めてきた。
他に同行しているのはガレット・デ・ロワの幹部ハーシュ・レーマンだ。
張り詰めた空気。
どんなに些細なことでも、何か一つでも切っ掛けがあればその瞬間に殺し合いが始まることだろう。
こんな場所では、さすがに下っ端を連れて来るわけにもいかない。
「どうだ、満喫してるか?」
「悪くない」
統一政府の管理下に置かれた歪な社会より、こうして欲望と悪意が渦巻くディープタウンの方がよっぽど自然だ。
ここでは誰もが自分の意思を持って動いている。
「お前さんなら興味を持つと思ってたんだ。こんな刺激的な場所、他にねえからなぁ!」
アダムに招待されたのだ。
悪党たちが犯罪を謳歌する街に。
ここには公安の監視もなければ、法も秩序も存在しない。
自分の身は自分で守らなければならず、命を落としたとしても弔われることさえない。
喰うか喰われるかの危険地帯だ。
人々はリスクを承知の上でここを訪れる。
それだけ裏社会においては価値があるコミュニティだった。
「一流以外は寄せ付けねえ場所だ。なぁ、ハーシュ?」
「はい、ボス」
荒事担当の若い構成員。
悪党というよりは過酷な訓練を積んだ軍人のような雰囲気だ。
腕っ節には自身がある彼でも、その額には冷や汗が伝っている。
そんな彼をよそに、アダムはこの状況を楽しんでいた。
長い時間を裏社会で生きてきた彼からすれば、殺気を浴び続けることなど些末な問題だ。
とはいえ、何か問題が生じれば即座に対応できるように備えていた。
「本来なら用がある時しか来ねえような場所だが、どっかの誰かが統一政府の計画を漏らしてこのザマだ」
どれだけ巨大なシンジケートでもラプラスシステムの脅威からは逃れられない。
そのため、以前アダムが"ディープタウンに潜る"と言ったように、このコミュニティに拠点を構えようとする者が増えてきていた。
そして、悪党同士の睨み合いが始まってしまった。
「いずれここらも"掃除"することになるだろうが、今はどうでもいい話だな」
アダムはけらけらと嗤って、後方を振り返り――。
「ハーシュ」
一言だけ。
それで意図は十分に伝わっていた。
物陰に潜んでいた殺し屋が襲い掛かってきて、即座にハーシュに組み伏せられる。
同時に反対方向から銃声が響いたが、クロガネの『破壊』によって生み出された層に阻まれる。
「――『探知』」
即座に襲撃者を割り出し、同時に怪しい動きをしている者をマークする。
組み伏せた者を含め、どうやら七人ほどの殺し屋集団に目を付けられたようだ。
それ以外の者たちも、騒ぎに乗じてこちらの首を狙おうと様子を窺っていたが――。
銃声が六つ、全てが襲撃者の頭部を撃ち抜く。
照準を合わせる時間もないほどの早撃ちだったが、射撃は極めて精密だ。
そして次に二つ、今度は銃口を上に向けて鳴り響かせる。
これは警告だ。
「おぉ? また腕を上げたか?」
アダムが感心したように手を鳴らす。
一瞬の出来事だったが、周囲のハイエナたちを黙らせるには十分すぎた。
「ボス、こいつはどうしましょう」
「んなもん殺しちまえ」
命令通りに、ハーシュが組み伏せた襲撃者の首を圧し折る。
わざわざ拷問するほどの価値はない。
「ここらじゃガレット・デ・ロワの名も通用しねえ。成り上がるなら、こうして力を示さねえとな?」
これこそが裏社会の深部の姿。
よほどの胆力がなければ、向けられる殺気の多さに精神が参ってしまうことだろう。
それでも潜るだけの価値がある。
殺し屋から情報屋、技術者やハッカー、闇医者など……表の世界には出られないような者たちが交流しているのだ。
クロガネがディープタウンに潜ることを望んだのも、そういった者たちとの繋がりを得るためだった。
戦闘には自信があるものの、対組織を考えるにはまだ力不足だ。
情報収集に関しては素人で技術者としての能力があるわけでもない。
かといって、全てを自分一人で賄うには限度がある。
統一政府の監視システムが強化された際に、個人で抵抗し続けるのは困難だと感じていた。
そのため、多方面に手を届くようにしておくべきだろう……と。
「お前さんも正式に"招待"されたわけだ。無法魔女で好き勝手に出入りできるヤツなんて片手で数えられるくらいだろうよ」
ディープタウンに一般人が潜ることはできない。
招待された大悪党か、その組織の構成員。
非合法な契約によって連行されてきた三等市民もいるが、人目に付かないような場所で労働させられている場合がほとんどだ。
首領か構成員か奴隷か――そんな階級さえ、野心があれば覆すことも可能だ。
狡猾な者ほど稼ぎを得られ、残忍な者ほど生き延びられる。
法も規則も、そして常識さえ適用されない無法地帯。
ここで強い勢力を持つ者は正真正銘の無法者と言えるだろう。
「おぉ、そうだ。ここに来たからには、先ずはディープタウンの"主"に挨拶しねえとなぁ?」
場所が記されている紙を投げ渡して、アダムが愉快そうにけらけらと嗤う。
どうやら、これ以降は別行動のようだ。