180話
「この声は……」
これは恐怖ではない。
湧き出した憎悪で手が震えているだけ。
全ての元凶である彼の声を聞いて、ピタリと手が止まってしまう。
何度もスピーカー越しに流れてきた悪魔の声。
『見事な成果だ、0040Δ』
非道な実験を繰り返す男――グリムバーツ・アン・ディ・フォンド博士だった。
いったいなぜ、彼がヴァルマンと通話をしていたのか。
想像もしていなかった人物が介入してきたことで、クロガネの脳が混乱してしまう。
たが、それも一瞬のこと。
この程度で狼狽えているようでは生き残れない。
「……覗き見するのが趣味なの?」
『勿論だとも。これほど興味深いデータを見過ごす研究者はいないだろう』
監視カメラをハッキングしていたのだろう。
ヴァルマンの執務室には、セキュリティのために幾つかカメラが設置されている。
今更壊したところで意味はないだろう。
不愉快な視線に、クロガネは『解析』を発動させる。
パスを辿ればフォンド博士のPCに侵入できるはず。
と、考えていたが。
「……チッ」
途中で『解析』が遮断されてしまう。
極めて高度なハッキング対策を用意しているらしく、無闇に侵入しようとすれば反動を受けかねない。
さすがに大元を暴くことまでは厳しいようだ。
『セキュリティアラート……侵入を試みたようだな?』
この短時間で……と、フォンド博士が感心したように言う。
戦闘能力は度重なる機動試験の中で身に付けたが、脱走後にそこまでの技術を得ているとは思っていなかったらしい。
『やはりお前は、メディ=プラント施術を行う上で優秀な素体だった。それ故に、手放したことを惜しく思うが……』
唯一、彼が断念せざるを得なかった事情。
あの日、実験体を引き渡すように裏懺悔が"話し合い"に来なければ、より興味深いデータを得られていたはずだった。
『だが、それも過ぎたことだ』
まさか、これほどの狂気を持つ男があっさりと引き下がるとは思えない。
そう思って身を隠しながら日々を過ごしてきたクロガネだったが、これまでにそれらしき刺客を送られてきたことは一度もない。
彼の言葉に偽りは無いのだろう。
惜しいと思っているのは本当のようだが、裏懺悔とのやり取りの中で手出し厳禁とでも言われたのだろうか。
「それで、わざわざ通信を切らずに待っていた理由は?」
『成果には正当な報酬を与えるべきだろう。ヴァルマンのPCを漁るのもいいが、より多くを知りたいならば――この私に尋ねるといい』
一連の事件について、黎明の杜が行おうとしている儀式について。
そして、なぜ彼女たちにフォンド博士が干渉しているのか。
考えるだけで疑問は尽きないが――。
銃声が響く。
携帯端末が砕け散って、完全に機能を停止させた。
「そんなもの必要ない」
彼こそが、自分をこの世界に引き込んだ全ての元凶だ。
どのような思惑があるのか不明だったが、そんな男を相手にするつもりはない。
『――その警戒心があれば、確かに掌の上で踊らされるような愚物にはならないだろう』
後方から聞こえた声に、クロガネは銃を構えて振り返る。
今度は壁に取り付けられた多機能デジタル時計から音声を発しているようだ。
『黎明の杜を潰すのだろう? 今回は利用したまえ。それだけ価値がある情報を提供しよう』
建物内のシステムに侵入しているのだろう。
この時計を撃ち抜いたところで、今度はコーヒーメーカーあたりが喋り出すかもしれない。
そうまでして関わろうとすることに意味があるのだろうか。
「……何を企んでる?」
『データ収集の一環とでも言えば、満足してもらえるか?』
建前の中で最も価値の薄い理由だ。
彼を疑ったところで何も得られない。
彼が提供するのは黎明の杜にとって不都合な情報だろう。
そうして宗教組織一つを壊滅させたとして、どのようなメリットがあるというのか。
「なら、黎明の杜について何を知ってるの?」
『様々な悪意に踊らされる犠牲者。たとえ"儀式"を成功させたとして、統一政府に打撃を与えられるほどの物は生み出せない』
だというのに、彼女たちは"儀式"を盲信している。
全てを解決する万能の魔法など存在しないというのに。
『悪魔式とは、魔女の魂を宿した七十二の器からなる供物。それらを捧げることによって、世界に災禍を齎す悪魔を召喚する』
クロガネが『解析』によって得た情報と同様のものだ。
そこに偽りはない。
『だが、実験体0050Σ――氷翠のコアに埋め込んだ幾つかの"不純物"が、遺物との適応を妨げたことでバイタルデータに異常をきたしてしまった』
だから、儀式は成功しない。
どれだけ仲間を集めて戦い抜いたとしても、最後には絶望を見ることになる。
初めから彼の掌の上だった。
人為的に生み出された魔女というだけではない。
何か黒い企みのために、自分たちなら"世界を変えられる"という思い違いをさせられているのだ。
「それで、失敗作を使って何をするつもり?」
『この社会に"起点"を生み出すのだよ。彼女たちの働きによって世論は傾く。統一政府はテロ防止という大義名分を得て、完全管理社会の実現を推し進めることができる』
それこそ無法魔女にとって最も恐れるべき事態だ。
三等市民の決起によって実害を被っている者たちは異を唱えない。
大半の市民は統一政府の方針を歓迎するだろう。
裏で多くの者たちが暗躍している。
前線で命を賭して戦っている黎明の杜は、ただ利用されている傀儡に過ぎないのだ。
迂闊に他者を信用した結果がこれだ。
警告したところで氷翠の心は変わらないだろう。
全てが崩壊するまで、きっと彼女は他人を信じようとするはずだ。
フォンド博士の言葉通りであれば、自分と同じように機動試験を繰り返したはず。
だというのに、何故あれほどの甘さを残してしまったのだろうか。
或いは、それさえも彼の筋書き通りなのかもしれない。
「……部外者にそんなことを話していいの?」
『お前ならば、遅かれ早かれ真実に辿り着いていたことだろう』
内容にフェイクが混ざっている可能性を考慮しつつも、確かに危惧すべき話だと納得する。
失敗作だと分かっていれば野放しにしても脅威にはならない。
そして、統一政府は最大の利益を上げることになる。
だが、ここまでが話の全貌というわけではない。
これではフォンド博士の企みが見えない。
統一政府について話すだけで、なぜ彼が黎明の杜を操っているのか不明瞭なままだった。
そんな疑問を抱いていることも彼の頭脳には筒抜けだ。
僅かな沈黙からそれを感じ取って、彼は満足そうに「ほう……」と息を漏らす。
どれだけ言葉を並べ立てたところでクロガネは鵜呑みにしないと理解したようだ。
『そのPCに行動スケジュールと儀式に関する詳細なデータを転送した。活用するといい』
彼のような狂人相手に理由を尋ねるだけ無駄だろう。
ヴァルマンを通じて黎明の杜を支援しつつ、同時に誰かの手で潰させようとしている。
何かをコントロールするかのように微調整を繰り返している。
だが、どのような干渉があろうとクロガネ自身の立場は変わらない。
己の意思で考え、そして動くのみ。
『"彼女"に潰されないよう、存分に健闘してくれたまえ』
他者に期待しているようでは、いずれ足元を掬われることになる。
なおさら、こんな悪魔の戯言に耳を貸す必要はない。
File:グリムバーツ・アン・ディ・フォンド
一等市民で、天才科学者として知られるCEMの最高責任者。
専門分野は魔法工学に留まらず、医学、薬学、生物学等にも深い理解がある。
彼の頭脳は人間の範疇に留まらないとさえ言われている。