177話
――エスレペス北工業地域、C-1区画。
各区画の管理を担う施設が建ち並ぶ。
研究・開発から製造に至るまで、この地における全ての工程を見渡すことが可能だ。
この工業地域は、元はエーテル汚染によって封鎖されていた場所だった。
魔法省によって封鎖解除が宣言された際に、複数の企業が協賛して土地開発を行ったのだ。
それを主導した人物こそ、アルケミー製薬株式会社代表取締役――ヴァルマン・レセス。
黎明の杜にとって最大の支援者と呼べる人物だった。
「C-5区画での実験は非常に素晴らしい結果を出しましたが……何やらエーテル値の変動に異常箇所が確認されたようです」
『外的要因による変動は考慮せずともいい』
電話先で男が嘆息する。
C-5区画で何が起きたのかおおよその見当は付いていた。
『それより……このところ、彼女の支援が滞っているようだが?』
「無茶を仰らないでください。これ以上動けば勘付かれてしまいます」
そうなれば、統一政府が貴方に辿り着くかもしれない……と、ヴァルマンは諫める。
「進行度で言うなら九十パーセントを超えておりますし、後は彼女たちに任せても問題ないでしょう」
『ほう?』
彼が黎明の杜を信じているというわけではない。
支援者の中には、何かしら目的を持って接近している者もいる。
「統一政府も彼女たちを泳がせているのではありませんか?」
『ふむ……なぜそう思ったか聞かせてもらえるか』
「構いませんよ」
ヴァルマンは温厚そうな顔を歪め、悪魔のように嗤う。
「あの程度の組織に統一政府が手こずるとは思えません。ヘクセラ長官が誘拐されたことも世論を動かすため……結局のところ、全て予定調和なのでは?」
『実に愉快な考察だ。が、黎明の杜が全て思惑に沿っているわけではない』
概ね肯定しつつも一部は否定する。
統一政府は万能ではなく、そして黎明の杜も弱者というほどでもない。
たまにだが、この男は彼女たちの肩を持つような発言もする。
電話相手の男が何を目的に"黎明の杜を支援させている"のか気になって仕方がなかった。
『君が反体制派であることは事実だろうに。僅かでも期待したりはしないのか?』
「まさか。私は単純に、貴方に付いた方が何十倍も得だと判断したまでです。そうでしょう――フォンド博士?」
底知れない頭脳を持つ男――グリムバーツ・アン・ディ・フォンド博士。
CEMの最高責任者にして、史上最も優秀な研究者。
一部では冷酷残忍なマッドサイエンティストだと囁かれている。
それでも私欲を貪る一等市民たちに平伏すくらいならば、彼に魂を売った方が賢明だろう。
彼がなぜ黎明の杜を支援するのか。
そして、全面的に力を貸すのではなく、中途半端なところで放任している理由が見つからない。
その脳内には、凡人には想像が付かないようなビジョンが描かれているのだろう。
一企業の代表取締役を務めるヴァルマンでさえ、彼と話していると自分が途轍もない凡愚のように感じてしまう。
力を持っているだけの魔女を相手にするより遥かに恐ろしい。
「この後、例の件について――」
話を進めようとした時、急にセキュリティアラートが鳴り響いた。
「少々お待ちを」
フォンド博士との通話は継続しつつ、受話器を反対の手に取って応答する。
「何事だね?」
『無法魔女の襲撃です! 敵は一人ですが――』
銃声が響き、ノイズが耳元で流れた。
生存は期待できないだろう。
アルケミー製薬本社では、最大手の警備会社であるTECセキュリティを雇っていた。
そこらの無法魔女では手出しできないような警備体制だというのに、襲撃者は様々な銃を操り突破している。
身の危険があるという状況だというのに、思わず感心してしまうほどの手際の良さだった。
随分な手練を仕向けられた……と、そこまで考えてふと気づく。
「……銃使いの無法魔女? いや、まさか」
ロムエ開拓区でレドモンドの汚職を庇った時、戦慄級『徒花』と対峙した魔女がいた。
最終的には彼の一等市民推薦枠を得るという野望を打ち砕いて、シンジケートとの強固な繋がりを得たという。
ある程度の事情を知る者であれば名前もすぐに浮かぶ。
監視カメラの映像を拡大して、その予感が間違いではなかったと悟る。
「禍つ黒鉄……なぜここに」
個人的な恨みを買ったつもりはない。
諍いが無いとは言い切れないが、少なくともアルケミー製薬本社に乗り込まれるほど敵対したつもりはなかった。
強引な手段で乗り込んできているが、目的が金品の強奪などではないだろう。
『待て。禍つ黒鉄だと……?』
フォンド博士が血相を変える。
微かな狂気を孕んだ声色に、さすがにヴァルマンも理由を尋ねることはできなかった。
『ふむ……これもいい機会だ。この場に氷翠を呼びたまえ』
「承知しました」
即座に救援要請を発信する。
表向きは黎明の杜に協力している立場なのだから、利用しない手は無いだろう。
『後で監視カメラの映像を提供してもらう。襲撃の一部始終を余さず記録するように』
「無事に生き延びられたら、そう致しましょう」
ヴァルマンは電話を切ると、深呼吸をして心を落ち着かせる。
こういう時に焦る人間が真っ先に命を落とすのだ。
判断を誤らないよう平常心を保つ。
銃を取り出して身構える。
上級対魔弾が七発装填されたハンドガンは、一個人が護身用に所有するには過剰なくらいだ。
これならば、戦慄級の魔女にも十分な効果が見込める。
もちろん、運良く弾が当たったならの話だ。
無意味だと分かっていても、素手で待ち構えるよりずっと気分はマシだろう。
監視カメラの映像を確認しながらタイミングを図る。
緊張で鼓動が早まっていく。
震える銃口を持ち上げ、じっとその時を待つ。
ドアが空いた瞬間を狙って――。